知多半島の山車  
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からくり人形/人形作者

 

「からくり人形」
■カラクリの歴史は古代エジプトより
■和時計の元祖は尾張から
■からくり人形には神が宿る
■尾張のからくり人形
■知多におけるからくり人形の始まり
■宝暦頃のからくり人形
■大野のからくり
■人形浄瑠璃が今も上演されている
■前棚で演じる三番叟人形
■山車からくりにも時代の変遷が
■からくり人形作者たち
 初代玉屋庄兵衛
 竹田寿三郎
 竹田藤吉
 鬼頭二三
 初代隅田仁兵衛
 二代目隅田仁兵衛
 竹田源吉
 五代目玉屋庄兵衛
 土井新三郎
 六代目玉屋庄兵衛
 七代目玉屋庄兵衛
 地元のからくり作者
■南吉と三番叟

 

■からくり人形作者たち

  初代玉屋庄兵衛

 尾張地方が山車からくりの宝庫といわれる礎えとなった先駆者の一人。享保18年(1733)名古屋市伝馬町の林和靖車のからくり制作のため、京都より名古屋の地へ訪れる。当時、大阪の竹田近江一座と拮抗していた山本飛騨掾が人形を、庄兵衛は仕掛けを担当した。初代庄兵衛は元は竹田系のからくり師であったことがうかがえる。
 庄兵衛はからくりの操作を指導して京に戻ったが、その翌年の祭礼に、鶴のからくりがどうしても動かず困り果て、再び庄兵衛を呼び寄せ教えを受ける。庄兵衛はそのまま玉屋町に転住して名古屋の人となったため玉屋庄兵衛と称されるようになる。
 この鶴は代々の玉屋庄兵衛が扱い、町内の者にも絶対に仕掛けを秘して見せなかった。祭礼がおわると直ちに箱の中にしまい封印して帰ったという。玉屋庄兵衛が鶴遣いの庄兵衛といわれる所以はこのためである。
 林和靖車のからくりは、中国の聖大林和靖と鶴追い唐子の故事による。丹頂鶴が羽根をのばして餌を食べる仕種は、まるで本物の鶴が羽虫をとる動作に似て精巧を極め、首の回転が自由自在の名人芸をみせた。これを玉屋庄兵衛のみが操ったというのである。
 
  竹田寿三郎 

 大阪の人であるという。東海市大田の黒口組にある枝にぶら下がり太鼓を叩くからくりと、同じ荒古組の唐子二人が蓮台を回し、蓮台上の唐子が逆立ちして鉦を叩くという。この二つのからくり人形は竹田寿三郎の作であろうといわれている。
 寿三郎は、明和4年(1767)名古屋若宮祭りの福禄寿車が改造された時に、離れからくりを作っている。一人の唐子は団扇太鼓を打ち、いま一人の唐子は蓮台上で片手逆立ちとなり、首を振りながら右手で擦鉦を打つといったもの。
 同じ若宮祭りの玉屋町西王母車は明和9年(1772)に、従来の桃が割れ唐子が飛び出すからくりを、寿三郎が離れからくりに改める。大唐子が小唐子を肩車して桃の枝に小唐子を止まらせる。小唐子は左手で枝につかまり右手で太鼓を叩くという離れ技を演じる。下半田北組に現存する離れ唐子と同種の離れからくりであろう。離れからくりは、糸加減が難しく、明治になって元の大桃が割れるものと取り替えたが、面白味に欠け、土井新三郎が改良して再び離れからくりに戻している。このゼンマイ(鯨の髭)仕掛けで動く離れからくりは、名古屋の祭りの人形の中でも最上のものであると、人形師が語ったいわれる。
 東海市大田のからくり人形が竹田寿三郎の作とすればこの時代の作品であろう。

  竹田藤吉 

 竹田からくり直系の細工師である。パネ仕掛けを得意とし、そのからくりの名作は各地に今でも現存し、祭りの花形として喝采をあびている。
常滑市大野の唐子車の肩車した唐子が太鼓を打つという離れからくりは天明5年(1785)の作である。河和北組の肩車唐子の離れからくりは寛政2年(1790)6月、蔦屋藤吉とある。これは幕末頃名古屋より買い入れたものである。竹田藤吉が蔦屋の屋号であったことがわかる。
 碧南市中区車の乱杭渡りはからくり人形の最高傑作としてロンドンで絶賛されたが、亀崎田中組が山車を売却した時に付いていたものか。天明8年(1788)の作である。犬山祭りの乱杭渡りより古い。
 藤吉の仕掛け技術は、人々をあっといわせることに秀れ、現在でも仕掛けはどうなっているのか見抜けないほどの巧妙さに舌を巻く。まったく「からくり名人」である。

  鬼頭二三 

 鬼頭二三(じさん、またはふみ)は幻の人形師ともいわれ、からくり名人との名のみが宣伝され、その実態はつかめていなかった。その作品も少ない。亀崎石橋組青龍車の蓮台上で逆立ちして唐子が太鼓を叩く作品が鬼頭二三の作と伝わるが、天保12年(1841)4月と箱書されているとすれば鬼頭二三はすでに亡く、一考を要したい。人形は箱書よりもっと古いものともいう。
 天明4年(1784)名古屋若宮祭りの唐子を修理している。また西枇杷島町東六軒町の麾振り人形の胴部に 「寛政八丙辰年四月 先人形 行年八十二歳 鬼頭二三造之』と記されていた。また、先年東照宮祭りの七軒町の橋弁慶車にあった弁慶の頭部が発見された。頭だけで40センチもあり、身長にすれば2.5メートルもあろうかという巨大なからくり人形であることが判明した。東照宮祭りはじめ名古屋の山車やからくり人形が悉く戦災で消失している中で貴重な資料である。その頭部内に寛政8年(1796)鬼頭二三の作と書きこまれていた。幻のからくり人形師鬼頭二三の実体が少し明らかになってきた。

  初代隅田仁兵衛 

 尾張の山車からくりは、従来の竹田座などの浄瑠璃人形と、和時計の技術が合体したところに特徴がある。その典型的からくり人形が下半田北組唐子車の離れからくりである。時計の機巧を内蔵したからくり人形として貴重なものである。文政12年(1829)隅田仁兵衛の作。
 隅田仁兵衛は栄重、真澄、真守の名がみえるが、栄重がその初代であろう。隅田の姓は仏師系の名という。どんなきっかけで、からくり細工師になったか定かでない。
 隅田仁兵衛の作品は各地に残る。名古屋市の桑名町の湯取神事。熱田区中瀬古の人形。小牧市横町の聖王人形。岐阜県羽島市竹鼻祭りの上城町と大西町の人形がある。なかでも天保6年(1835)に作られた、名古屋市鉄砲町の麾振り人形は仁兵衛一代の傑作といわれた。桑名町の湯取神子車での笛吹き人形は、滑稽な表情の顔と瞬きする眼で評判となった。これら名古屋での仁兵衛の作品が戦災などで消失したのは残念である。

  二代目隅田仁兵衛 

 真守を二代目隅田仁兵衛とするには、まだ資料が少なく的確でないかもしれないが、ここでは真守を二代目とする。
 大野十王町梅栄車の山車は嘉永元年(1848)に新造された。この時に制作された人形に真守の名がみえる。大将人形「住田仁兵 藤原真守」、陵王人形「石橋舎住田真守造」、麾振唐子「石井昌則好住田真守作」と箱書されており、またその時の記録にも「御人形は名切町石橋屋仁兵衛」とある。これから隅田仁兵衛の名を継いだのが真守と推測される。当時真守は名古屋の名切町に居住し石橋屋の屋号であったことが僅かながら知れる。また、箱書の中の石井昌則は十王町の有力者で、本名を善六といった。昌則は号である。彼の力で人形は選ばれたといい、笛を吹いている人形は天神様より格の高いお公家さんだよと言ったとの話が伝わる。
 他に下半田北組の三番叟人形は天保14年(1843)真守の作と人形を修理した時に頭部内に墨書されていた。西枇把島町問屋町のからくり人形は弘化3年(1846)の作である。
 真守は年代から栄重の子か弟であると思われる。
 真澄については栄重、真守との関係はわかっていないが、僅かに名古屋市中村区花車町の麾振り人形、天保12年(1841)にその名を留める。

 
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