知多半島の山車  
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からくり人形

 

「からくり人形」
■カラクリの歴史は古代エジプトより
■和時計の元祖は尾張から
■からくり人形には神が宿る
■尾張のからくり人形
■知多におけるからくり人形の始まり
■宝暦頃のからくり人形
■大野のからくり
■人形浄瑠璃が今も上演されている
■前棚で演じる三番叟人形
■山車からくりにも時代の変遷が
■からくり人形作者たち
 初代玉屋庄兵衛
 竹田寿三郎
 竹田藤吉
 鬼頭二三
 初代隅田仁兵衛
 二代目隅田仁兵衛
 竹田源吉
 五代目玉屋庄兵衛
 土井新三郎
 六代目玉屋庄兵衛
 七代目玉屋庄兵衛
 地元のからくり作者
■南吉と三番叟

 

■尾張のからくり人形

 高さ十二間(約22メートル)というとてつもなく巨大な山車が熱田神宮の南新宮社祭礼に出現した。大山という。文明年中(1469〜86)の創立という。織田信長も熱田の市場を訪れた時に大山を見物したとの伝説をのこす。この車の最上段に小祠を祀り白弊を持った神官の人形を置く。次の段には神功皇后と湯取神事の人形が立つ。さらに青色、黄色の六尺(約2メートル)余りの大人形が軍配団扇をもって立つ。この異様な風情の人形は青才六、黄才六といい、大山祭りの起源となる。疫病で苦しんだ病人が全快した姿という。囃子が終わると七、八尺の龍が天に昇るが如く最上段に聳えたつ。
 これが山車からくりとして最初に出てくるからくり人形であるといわれている。動きも後年にみられる華やかにも巧妙なからくりとは程遠く、単純で散漫なもののようだ。龍のからくりは南知多町内海の三郷祭りで馬場地区より出る山車上で演じられる蛇操りや、武豊町大足の蛇車の龍に近いものであろう。また青才六は河和中組のアオゾウ人形にその面影がうかがえる。
 因みに大山祭りの須賀車の幕は、常滑城最後の城主水野監物守隆(直盛)の妻である総心尼が寄贈したものである。総心尼は夫の監物が本能寺の変で京に滞在していたところから明智光秀方に味方し、常滑城は廃棄してしまった。残された総心尼は熱田に居を移し、家康と従兄弟であるところから尾張藩で手厚くもてなされ、常滑殿として親しまれ余生を送った。
 現在の山車の原形ともいえる山車が登場するのは元和6年(1620)名古屋の東照宮祭りにおいてである。その前年に大八車を二台合わせ、その上に能人形の西行桜を置いた。これが好評だったのであろう。新しく山車建造され橋弁慶車と呼ばれた。山車上に牛若丸と弁慶が五条の橋上で戦うからくり人形だ。先年この山車の弁慶の頭(鬼頭二三作)が発見された。天明5年(1785)に山車改造があり新しく改作された人形であろう。
 七間町の橋弁慶車の出現以来、各町内でそれに負けじと競いあって山車が建造された。その上には必ずからくり人形が乗った。当時の物は仕掛けも大がかりで、弁慶人形が2.5メートルもあるという。それだけ動きも単純なものであった。
 大阪、京都で人気を博した竹田からくりが名古屋でも興行されると、それに刺激をうけた職人も出だしたであろう。特にからくり人形の基礎となる時計は我が国においては尾張が発祥と伝う土地である。
 精巧を極めたからくり人形が見物人を驚嘆させ、近郷近在に評判を広めるに時間はかからなかった。財力のある町から順次、山車が造られ、からくり人形が注文された。娯楽の少なかった当時の庶民から喝采をあび迎えられたのである。知多でも比較的はやい時期に山車とからくり人形が制作されている。
 からくり人形が増えるにつれ、からくり細工師は本業として成り立っていく。新しいからくりを制作するだけでなく、修理や操り方法も引き受けたと思われる。細工師の数が増せばお互いが技を競いあうようになる。当然ながら技術も工夫も向上し、名人と呼ばれるからくり人形作者が登場することとなる。作者と見物人の意志が通いあったところに、そこに最高の技が生まれる。尾張がからくり人形の宝庫と称される所以であろう。

■知多におけるからくり人形の始まり

 延宝9年(1689)から天明5年(1785)にかけて横須賀町方によって記録された『古今綱領目録抄』に次の文が載る。
「戸部御芦当所大教院へ御着岸披遊段々賑い御芦御いさめに浦祭つゐてに車一輛からくり紅葉狩に致し閏七月十五日之筈天気悪敷同十七日に相勤近在所々より大分之見物前代未聞之事と男女老若おしなへて目をおとろかししばし明夕目をふさかす帰りしときこゆ末之世の噺のため書留置申候 享保六丑七月」
 戸部は名古屋市南区呼続町の富部神社のことである。富部神社ではみ芦流しの神事を行っている。その御札が大教院近くの海岸に漂着した。大教院は横須賀にあり修験道の寺である。先年枯死した、浜風に鳴る松葉の音が琴を爪弾くに似たという「琴弾きの松」のある寺で有名である。御芦が漂着したことを祝って山車が繰り出された。からくり人形の紅葉狩りが演じられると人々はあまりの驚きにすべての見物人が一日中眼を閉じることを忘れて帰ったというのだ。これは前代未聞のこと後々話題になろうと書き記したという。享保6年(1721)というと、まだ初代玉屋庄兵衛が名古屋に来る以前のこと。この時期に山車やからくり人形が存在したことは注目に値する。
 この時に祭りの演じられた場所は大教院北の愛宕神社と思われる。愛宕神社は迦具土命を祭神とする。火除け神さまとして知られる。元和7年(1621)横須賀村の坂甚右衛門の妻が長年患っていた持病で悩んでいたのを、京の愛宕山に参拝祈願したところ快癒する。愛宕信仰に厚くなった彼女が海岸近くにあった元宮に愛宕神を勧請し村の産土神となった。
 知多地方の祭りが春に行われる中で、この愛宕神社の祭礼横須賀祭りと、隣の太田祭りは秋に行われる。山車も名古屋型で知多では珍しい。文化頃(1804〜17)の建造と伝う山車とからくり人形を残す。『古今綱領目録抄』の紅葉狩は現存していない。

 
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