大野城とおごう

「あの人は私との別れを知っていた」

おごうは、船上からいま自分がやって来た伊勢湾を振り返った。伊吹おろしがさっと吹きつけ、彼女の前髪が舞い上がったとき、「ああ私は大野の人間になるのだわ」と、覚悟が定まったような気がした。

天正十四年(一五八六)晩秋、おごうは大野城主佐治与九郎一成のもとに輿入れして来た。大野は伊勢湾に面した尾張・知多郡にあり、城の櫓からは湾内が一望できた。

大野の城は東西四町、南北一町、総郭九十二町一反だったといわれる。起伏の多い丘陵の上につくられていたが、丘陵の持つその起伏の高低を利用して本丸、二の丸、櫓などが構えられ、その隆起を繋ぐ窪地を掘り下げて空壕があつた。現在は城の天守閣をもじった展望台ができているが、当時は天守閣はおろか、空壕には石垣もなく、壕をかき上げた際に出た土を固めただけの、いかにも土豪の城砦そのものであったと思われる。

おごうの輿入れの日は、秋とはいえ小雪の散らつく寒い日だった。熱田から船出した一行は、途中まで出迎えた与九郎輩下の大野水軍の小舟の群れに取り囲まれるようにして大野の浜へ着いた。

姉たちは、おごうの与九郎のもとへ輿入れが決まったとき、大野があまりにも小大名なので大いに同情してみせたが、「私にはこの方がいっそ気楽なのよ」と、おごうは、はるか安土城に残された茶々やはつに向かって呟いた。姉たちに較べて地味な性格だった。

おごう十六歳、与九郎十八歳である。共に母親が姉妹なので、従兄妹同士の若い夫婦ができ上がった。それがおごうの気持を楽にさせていたのかも知れない。彼女の胸の中でやがて恋心が育っていったようである。

おごうは本丸の南側にある櫓へよく上がった。この櫓からは伊勢湾越しに伊吹山や鈴鹿山脈が眺められ、特に夕陽を浴びた山々の残照の移ろう姿を彼女は愛した。また、櫓からは夫たちの兵船の訓練の様子が手に取るように見えた。おごうは兵船の動きをよく記憶していて、帰って来た夫の与九郎に自分なりの感想を述べる。的を得ていないことの方が多かったが、それでも与九郎は、にこやかに耳を傾け 「ようそこまで見届けた。さすが水軍の女房よ」と、必ず最後におごうを褒めた。

しかし、二人のままごとのような蜜月は長く続かなかった。

天正十六年春、大野城へ秀吉から淀城で暮らす姉の茶々の病気見舞いに出向くようにという使者が訪れた。おごうは単純にそれを信じた。

旅立ちの日、思いつめた表情をしていた夫の与九郎が、にわかに長押の槍を取り上げて、穂先をおごうに向けた。その目に炎のような激しさがあったが、それを彼女は夫が自分に向けた愛情の所作のーつとして受取り 「どうぞ」と、胸をさし出すようにした。おごうは微笑していた。しばらくおごうを見つめていた与九郎だったが、やがて目が柔らぎ「ふむ」と、頷いてから「道中無事でな」と、穂先で軽くおごうの胸を三度突く真似をしてから、そっと槍を引いた。夫の目が泣いていた。

「すぐに帰ってまいりますものを」

束の間の別れを寂しがる与九郎がいとおしく、逆に励ますように笑っておごうは淀城へ向かって出発して行ったが、彼女は二度と大野城へ帰ることができなかった。

その後、おごうは秀吉の甥の羽柴秀勝(秀次の弟)に嫁し、死別したあと徳川家康の三男の秀忠と再婚する。いずれも自分の意志ではなかった。

おごうにとって初恋の人は初婚の人、佐治与九郎だった。秀勝に嫁ぐときも、秀忠に嫁ぐときも決まって想い出すことは与九郎との別れぎわのひとコマである。

思いつめていたような与九郎の目、激しさを秘めていたあの槍。

『あの人は本気で自分を刺すつもりだったのではなかったろうか。あの人は自分との別れを知っていて穂先を向けたのに違いない。あまりにも無邪気な笑顔を自分が見せたために刺せなかったのでは・・・』

それを見抜けなかった自分の若さが悔やまれてならなかった。以後、大阪落城で姉の一人を失い、将軍家の継嗣問題をめぐる政争の中に身を置くことになるおごうだが、心の休まる日々はなかった。たとえ短い月日だったとはいえ、小さな大野城で過ごした与九郎との生活がささやかではあったが生涯でもっとも安定していたときではなかったろうか。

佐治家はおごうの去ったあと間もなく没落する。群雄が淘汰される中で彼も犠牲になった一人であった。女性のおごうもまた、戦国期に生きた女性の軌跡を示した人といえる。

文・峰村逸足 (麦同人)



おごう

おごう。小督、お江とも書く。父は近江(滋賀県)北部を領し、小谷(おたに)に主城を持っていた浅井長政。母は織田信長の妹のお市。三姉妹の末娘で、姉は茶々(淀君)、おはつ(京極高次の妻)の二人。長政が越前(福井県)の大守であった朝倉義景へ義理立てして、義兄の信長に反抗したために浅井家は滅亡、おごう三歳のとき。母と姉妹は助命されたが、兄の万福丸と幼い弟の幾丸は小谷落城後捜し出されて斬られた。

伯父信長の死後、母のお市は越前北庄(きたのしよう)を居城としていた柴田勝家と再婚したが、信長後の後継者争いで羽柴秀吉に敗れ、勝家に殉じて自決する。

姉妹はその後、秀吉の保護のもと、秀吉の意志には逆らえない人生を辿るか、後年、徳川二代将軍秀忠の妻となるおごうと、秀吉の側室として、またのちには秀頼の母として大阪城で落命する姉の淀君とは、対照的な運命を分け持つことになる。


大野城趾は常滑市金山の青海団地の一角にある。展望台から見る伊勢湾の眺めは知多半島の一つの景観である。