家康を思う於大の方

「どうか生き延びてくだされや」

上洛を目指して西進を始めた駿河の今川義元、それを阻止して小国の意地を見せようとする織田信長。五万余の大軍を動員している今川の勝利を疑う者は、まずいなかった。信長が動員できるのは精々三千の兵力なのである。

清洲の信長が当然篭城するものとみて、織田方である阿久比城主久松俊勝もまた白城の篭城準備に忙殺されていた。俊勝の妻の於大は城内に仕える女たちや子供たち、そして城内に集まる将兵の妻や娘たちにまで、最後の場合の心構え、身の処し方についての細かい指図を終えると居間にこもった。あとは夫や子供たちのために祈るしかない。

於大の心境は複雑である。今川ので先鋒として大高城へ入っている松平元康(竹千代)が広忠との間にもうけた実子なら、俊勝との間の子供たちもやはり腹を痛めた子たちなのであった。

それがいまは敵と味方。戦国の世の常とはいいながら於大には辛いことである。

永禄三年(1560)五月十九日。自分を取り巻く人々の運命の日。

びっしりと戸の閉められた於大の居間には甘い湿気を含んだ蒸し暑さが満ちていた。彼女は持仏を前にしてひたすら祈る。正午前、於大に来客があった。旅の武家とだけで、名乗らないという。もしや?との予感があった。元康は近くの大高にいる。しかし、この城は彼にとって敵中である。まさかと思う反面で、元康に違いないとの思いもある。

その元康が間もなく於大の前に坐った。於大が広忠と離婚したのは元康が三歳のときである。それ以後、元康が織田の人質として熱田に滞在していたおりに二度会っている。身の回りに不自由がないようにと、何くれとなく贈り届けをしたものである。夫の俊勝、そして信長もまた見て見ぬふりをしてくれた。その竹千代かいま、こうして目の前に……。

「母上のふところの温かみ、この元康、いまもよく覚えてござる。熱田、駿府への度重なる贈り物ありがとうござりました」

いっぱいに見開いた元康の目に光るものがあった。於大も同じである。再会のおりがあればあれも語りたい、これも聞きたいと思っていたが、いざこうして会ってみると言葉がなかった。

何を言ってみても舌足らずになりそうでそれが恐い。十数年ぶりの再会には言葉は要らない のかもしれない。目を見合っているだけで十分に幸せだった。

遠くで赤子のむずかり泣く声がした。末の子の長福丸が母を恋求めているに違いない。

「わたしには岡崎に弟も妹もおりません。母上のお子は、わたしにとっても大切な弟妹でござる。ぜひとも対面して兄弟の名乗りをあげとうございます」

元康は於大の夫の俊勝をはじめ長男の三郎太郎ら三人の子だちと対面し、一時間そこそこで 大高へ向かって去って行った。雨が降り始めていた。

「どんなことがあっても、どうか生き延びてくだされや」

母、於大の言葉に何度も頷きながら。

その時刻、今川義元は桶狭間へ入り、織田信長はその桶狭間を目指していた。

於大の兄、水野信元からの使者が阿久比城に転がり込むようにしてやって来たのは、さらに その三時間後のことである。使者は馬上で喚めいていた。

「今川義元どのが討たれたぞ。信長さまの大勝利じゃ。勝ったぞ」

死を覚悟していた阿久比城内はどっと湧いた。その喧噪の中で、俊勝が於大に向かって 「織田家にとっては万々歳。縁に繋がる久松の家にとってもめでたいことであるが……しかし、弱ったのう」

於大は夫の横顔を凝視した。無類に好人物の俊勝がまるで自分の子のように元康の身を案じていてくれる。その不安は於大自身の不安である。このまま大高に留まれば元康は信長に殺される。義元の死によって今川の大軍は四散した。元康は孤立している。大高は元々は織田方の城の一つである。時が移れば信長が大高を無視する筈がなかった。

「との、お言葉に甘えて申し上げます。清洲へはすぐに使者をおつかわし下さいませ」

「何と言ってやるのじゃ」

「この母が会い、説き伏せても必ず信長殿には逆らわせませぬ、と……」

俊勝は膝を叩いた。

「なるほど、さすが母親じゃ」

「城を捨てて引き掲げさせる。それよりほかに手だてがあろうとは思えませぬ」

木漏れ日を受けて地肌を光らせていた中庭の苔類にも、いつか黒い影が落ちていた。

元康は数日後、大高から兵を退いた。信長は敢えて元康を追わずにその撤退を許したのである。

文・峰村逸足 (麦同人)



於大の方

於大、あるいはお大とも書く。徳川家康の生母。刈谷の緒川城主水野右衛門太夫忠政と、華陽院こと於富の方との間に享禄元年(1528)出生。父の忠政は西三河地方から知多半島にかけての地方勢力を握つていたが、戦国大名の常として尾張の織田氏と、三河岡崎の松平氏の両勢力に挟まれて生き残りに腐心。母の於富が忠政の妻でありながら、松平清康(家康の祖父)に乞われて忠政の許を去り、清康と再婚したのもそのためである。

於大は十四歳で清康の子、広忠に輿入れしたが、忠政の嗣子信元(於大の兄)が松平に叛き織田氏と通じたために、隣国の大国である今川氏の嫌疑を恐れた広忠は於大を離別,岡崎城に子の竹干代(家康の幼名)を残して去る。

天文十六年(1546)阿久比の久松俊勝と再婚子の竹干代はその成長過程で織田、今川の両家で人質生活を余儀なくされるが、陰に陽に子をかばう母の於大の姿が見られる。慶長七年(1602)、七十五歳で死去、伝通院さまとしていまも地元の人たちに敬愛されている。墓所は東京・小石川の伝通院。遺髪は阿久比・洞雲院と岡崎・大仙寺に分納された。


於大の方

戦国時代を妻として、母として生き抜いた女性お大の方を描いた「お大の方物語」(定価1000円)は阿久比町役場が発刊している。