鎌田政家の妻

「せめてお供をお許しくださりませ」

夫の鎌田兵衛尉(ひょうえのじょう)政家を囲んで、長田邸の対屋では父の忠致、兄の景致らの酒宴が始まっていた。合い間に豪快に笑う夫の声を聞くのも久しぶりのことである。

平治二年(1160)の正月三日が何事もなく暮れようとしている。義朝の姿が座の中にないが、多分湯殿にでも案内されているのであろう。

平穏である。

世にいう平治の乱で平清盛に敗れた義朝が再起を図るために関東落ちする途中で、義朝と政家が野間を訪れたのが、平冶元年の暮れも追しつまった十二月三十一日のことでる。子供だちとも生き別れ、あるいは死別した義朝はその後も続く敗走の旅で、いかにも憔悴したようすであった。義朝の側近としての政家も心労のためにすっかり面変りしていて清を驚かせた。

野間の荘司は父の長田忠致であり、忠致は一族の名簿を義朝に捧げている家人の一人である。しかも義朝に従う政家は忠致にとって婿でもあり、縁の薄い間柄ではない。忠致は当然、義朝一行を歓待した。

人の善い忠致はともかく、清にとって気にかかるのは兄の景致である。彼は小心者にありがちな人一倍の野心家で、その点が清にとっては一抹の不安となっている。

「それが災いしなければよいが」と、清は危惧を抱いているのである。

彼女の不安はどうやら取り越し苦労となりそうな気配である。明けて四日には義朝一行は野間を旅立つという。そしていま、一族が集まり酒宴を開いている。清の気がゆるむのも当然であった。

清は知らなかったのだが、長田一族は義朝一行が疲労のために眠りをむさぼつていた一日、秘かな会合を持っていた。

「義朝討つべし」 と景致は主張した。

「敗将の義朝を討って、その首を清盛に差し出し帰属を申し出る。清盛は許すだろし、あわよくぼ恩賞を与えられ、長田家は末永く安泰を保障されるであろう。」

というのであった。考えてみれば絶好の機会である。従者も少ないし、一行には油断がある。

「しかし……」 と、忠致は首をたてには振らなかった。あごで清のいる部屋を指し、

「あれの亭主がおる。正清(政家の前名)を討てるか」

「討てます。酒を勧めて酔ったところをひと思いに・・・」

「そういうことではない。とにかくならぬわ」

その話はそれで打ち切られた。

酒宴は続いている。

気をゆるめた清の心の間隙を縫うようにして、一つの夢が入り込んだ。夫の政家に従って、自分も関東へ行ってみようかという夢である。政家の本貫地は遠江であるが、一行は野間をあとにしたあと、まっすぐに関東を目指し、再起を図ると聞いている。しかし、敗将の旅である。道中、安穏である筈がない。

「馬鹿なことを」と、夫に一喝されそうである。

「でも、・・・」と、清は夫にあがらう。本気でねだっているわけではない。夫に叱られたい、甘えてもみたいというわけである。当時、別居して暮す夫婦は珍しくなかったが、やはり女性としてそのあたりにこだわりを持つ清であった。

その夢が、突然に音をたてて弾けた。

湯殿の方角から聞えた怒号と、ただならない気配。反射的に清のからだはおどり上り、対屋までの渡り廊下を走っていた。このことこそ夢であってほしいと願いながら。夫たちが酒宴を開いていた部屋で血しぶきが飛ぶ音を清は聞いた。

清が転がりこむようにして入って見た光景は。無残としかいいようがなかった。

手前の入口に転がる死 屍は夫ではない。

壁といわず天井までしぶいた血潮と、床に流れ る血糊に足をすくわれながら、背を向けて立ちはだかる兄の景致と、父の忠致を押し分けるようにして部屋の中央に出た清は、腹部に刺さった刃をそのままに仰向けに転がつた夫の姿を見た。

「あなた、政清さま」

「きよか、無念じゃ」

政家にはまだ息があった。夫にとりすがり、その頭部を膝に抱え上げた清は夫に対する申訳なさと、父や兄に対する怒りで全身を震わせた。

「この仇をとりまする・・・」

「よせ。兄者も、父上もよくせき考えられた上でのことじゃ。女の身で仇討ちなど無用のことぞ」

「ならば、せめてお供をお許しくださりませ・・・」

言いつつ、壁ぎわに押しのけられた夫の太刀に手を伸ばした清は、いきなりその鞘を払って

「兄上も、父上もよくごろうじませ。わたくしは平衛尉政家の妻でございます」

とどめる間のない一瞬のことであった。清はいきなり小袖で刃をかき抱き、その屹先を喉に当てがって政家のからだの土へ伏し倒れた。

「お許しあそばして……」

謀殺を図った父や兄の行為を夫に詫びながら。

関東への旅の供はかなわなかったが、夫の死出の旅の供をまっとうした清の死に顔は安らかでさえあった。

義朝もこの間、素手で忠致の三人の郎党たちと闘い、湯殿で最期を遂げた。

文・峰村逸足(麦同人)



鎌田政家の妻

野間の荘司・長田忠致の娘、鎌田政家の妻とのみ史実は伝えている。その名すら定かではないのである。平治の乱(1159)で、平清盛に敗れた源義朝と政家ら主従が坂東(関東)への帰途、立ち寄つた忠致の邸内で謀殺されたとき、彼女は亡夫の政家のあとを追って死んだ。

彼女の生いたち、人となりが惜しいことに全く伝えられていない。

知多半島の美浜町にある野間大御堂寺境内の義朝公廟所の一隅に、鎌田政家の墓がある。これに並んで「烈婦平氏墓」と刻された碑が、あたかも夫に寄り添う妻のようにひっそりと佇んでいる。平氏とは父親の忠致が恒武平氏系であったところからそう称んだのであろう。

後年「大日本史」を編纂した水戸光圀が彼女を貞女の鑑と激賞したことがきっかで、文化八年(1811)に常滑の松本重張などにより鎌田の妻への讃文が建立されたが、これがそれである。

本文の中では仮りに彼女の名を清とした。名がなくては筋の進めようがないために、浄瑠璃本の鎌田兵衛、山田の段に登場する長田の娘、清姫の名を拝借したものである。彼女の本名をご存知の方があれば、ご一報いただけるとさいわいである。

なお、義朝が最期を遂げた湯殿の跡は大御堂寺から約1キロ東の法山寺境内東にある。


義朝の御廟の脇にひっそりと、家の墓と政家の妻の碑が建つ。
(美浜町野間の大御堂寺内)