威風堂々と知多を進攻

那古野城の城内にヒィー!という悲鳴につづいて、火のついたような赤子の泣き声が響いた。織田信秀の室土田御前が吉法師(信長)に授乳中乳首を噛みくだかれ、思わず痛さに赤子の頬を思いきり叩いたのであった。この日から母は二度と信長に乳を与えることはなかった。乳母が何人も変わる、その度に癇癪強く乳首を噛切ったが、池田勝三郎(信輝)の母だけにはなつき、穏やかに乳を飲んだ。

幼くして父母は古渡城に移り、信長は肉親の愛蒋き環境で育った。愛に飢えた反抗期を外に向ける。髪はざんばらを紅の紐で結え、湯帷子に荒縄を腰にまき、片肌脱ぎの姿で瓜や柿をかぶり皮や種を道端に吐き散らす。近習を引きつれ城下や村々を肩組み闊歩した。今でいう不良グループである。

「拘りゃになったら怖ぎゃあで、隠れとりゃあ」と人々は軒下に身を隠した。

「尾張の備後(信秀)の跡取りは大うつけ」の評判が諸国に拡まっていった。

信長は巷の噂に関係なく、尾張の隅々を、近習を引きつれ荒らしまわった。道なき山を駆け、赤土の崖を滑りおり、村々で悪童同士の喧嘩となる。石合戦や山の起伏を利用しての攻防は、後の信長の、兵法にない奇抜な合戦方法となる。土地の主立った悪童連中も信長の配下として従うようになった。そんな信長だが土地の古老の話には耳を傾けた。行儀作法や兵法を学ぶよりこの方が楽しかった。誰よりも尾張の地形や気象に熟知していたのが若き日の信長であった。

季節風で荒れ狂う馬走瀬(東海市横須賀)の浜に二千余の織田軍を乗せた船団が漂着した。天文二十三年(一五五四)正月、緒川城の水野信元より今川軍襲来の緊急の報せに、織田信長は軍勢を整え熱田湊より荒天をついて発ったのである。

木田城の荒尾美作守善次は城門を開けて一行を迎えた。兵卒は付近の観福寺や長源寺や神社の境内に分散して野営する。思いもしない大軍団の訪れに、村中総出で湯を沸かし炊き出しに慌ただしい。城内でもごった返していた。女衆をてきばきと指図する際立った立居振舞いの娘が信長の目についた。

「あれは、たしかそちの娘ではなかったか?」

善次を招きよせ尋ねた。腕白時代に木田城に立ち寄った時、焼き魚を立ったまま頬張る信長に行儀が悪いと窟めた小生意気な小娘を思いだした。

「ああ、あの娘か。なかなか気性もしっかりしとるわ。いい娘になりよったなあ」

側に控える近習の池田勝三郎の肘をつついた。

「よし、喜蔵の嫁にきめたぞ」と言うと、信長の後に従う童顔の弟喜蔵(信時)と荒尾善次に「いいな、それで」有無を言わさず婚姻の話をその場で決めてしまった。

信時はこの三年後に守山城主となるが旧城主の家臣に謀殺される。後家となった室は信長の計らいで池田勝三郎に再縁、荒尾家と池田家は主従を結ぶことになり、池田勝三郎の次男を荒尾家の養子に迎えた。これが後に八十七万石の大名、西国将軍と称えられた池田輝政である。

木田城を早暁に発った織田軍勢は、城の西の花井惣五郎守る藪城を睨み、さらに南の花井氏の拠点、堀之内城を左にみて威風堂々と進攻する。堀之内城は天主の鬼瓦が青銅の鱗形で陽に輝いていたため青鱗城とも呼ばれた。花井氏は今川の庄力に慌てふためいて人質を送り今川方についた。それを咎めるかのように信長の軍勢は堀之内城を威圧して佐布里まで進み、そこで方向を東に向け一気呵成に馬を走らせ、緒川城に着く。村木砦攻めでの壮絶な攻撃で大勝利する。舅の美濃の斉藤道三はその戦いの一部始終の報告を聞くと「婿ながら恐るべき男だ。いずれ我が息子どもも門前に馬を繋ぐことになろう」と嘆息ついたという。

織田軍は勝利に酔うことなく直ちに引きよげる。途中、堀之内城に兵を向け攻め寄せる。城下に火の手があがり黒煙が帯をひいて寺本の里を流れていった。同時に薮城も攻めるが、花井惣五郎の必死の抵抗に手問取る。だが無勢に多勢、城内より内通者が出てさしもの藪城も落ち、惣五郎は壮絶な最期を遂げた。

村木砦合戦の大勝利が、尾張に信長ありと武名を高めた。尾張を平定し暫しの平和が訪れる。そこに降って湧いたょうな恐怖が尾張の国を襲った。駿河の今川義元が上洛し天下に号令せんと行動を起こしたのである。二万五千の今川軍が怒濤のように尾張に進攻してきた。家臣団が籠城を固守するのを無視し、信長は多勢の今川方を急襲する。信長は少年時代に尾張の地理気象を熟知していた。大雨を予知し、豪雨の中を山越えの道を進み、油断する今川軍の本陣を突いて義元を討ち取る。

その日の夜、木田城の麓にある小さな集落に武士の一団が夜陰に乗じて訪れた。花井氏に縁のある名主の屋敷に首のない今川義元の遺体を運んできたのである。秘かに遺骸を葬る。翌日から名主の家には見馴れぬ俄か百姓が増えた。今川の家臣で義元の墓守としてこの地に住みついたという。

文・本美信聿(郷土史研究家)



木田城は名鉄河和線高横須賀駅東にある。荒尾空善より三代にわたって居城。荒尾一族の墓は運得寺(荒尾町)にある。池田信輝の城は平島城といい荒尾町の神明社西にあった。藪城は東海市養父町の安楽寺が城跡。花井惣五郎の墓が境内にある。藪城はその後信長の弟信治が居城したが、信治戦死後廃城となる。

堀之内城は別に寺本城という。城跡は、知多市寺本の堀之内の天王山にある。山頂に天王社(津島社)か祀られ、大手門前や本丸の石段、石垣が参道として残る。城主花井播磨守信忠はじめ花井一族の墓は近くの大祥院にある。

今川さん

今川義元を葬ったという「今川さん」は高横須賀小学校近くにある。織田の勢力を憚り義元を義基と改め秘かに供養したという。墓守りとして残つた今川の家臣は早川、北川姓で今も残る。