母が耳元で死にますまいぞと

六月二日朝に本能寺の事変を知った家康は、半信半疑ながら如何に行動するか苦悩していた。まずは京へ上り明智方と戦うべく堺を発ったのが正午前であった。途中で得た情報で岡崎への帰着を決断、主従五十余名は伊賀越えから昼夜かけて走り抜ける。伊勢の白子に着いた頃には夕暮近くとなっていた。初夏の山路を三十時間余で三十四里(約133キロ)走ったことは、四十一歳の男盛りの家康といえ驚異的なことである。

疲労困惑の身を休む間もなく、薪荷を積込んだ伊勢大湊の廻船業者角屋七郎次郎所有の船の荷を降ろさせ、これに便乗し伊勢湾を渡り知多の大野にむかった。この船は後に家康によって虎丸と命名される。

大野湊の江には報せをうけ町方衆が篝火を赤々と焚き出迎えに出ていた。俄かの休息所が各所に設けられている。大野に到着した家康だが安心することなく眼を配っていた。大野城に佐治、常滑城には明智に味方した水野監物の手勢がいる。いつ彼らが討って出るやもしれぬ、まだまだ油断できぬと警戒した。

東龍寺が家康の休息場であった。住職の洞山和尚は家康の母お大の妹の子で、幼くして父母を失ったため、暫くお大に養われたことがある。家康とは浅からぬ因縁があった。

「この度は大変なことでございました。あの剛毅な信長様がお亡くなりになったとは信じられませぬわ」

寺の檀家で戸田孫ハ郎はじめ幾人かが信長の近習として従っている。和尚は彼らの身が案じられた。

和尚は信長拝領縁りの品々を出してきた。家康は改めて信長の死の重さを知り、涙が頬をつたって流れた。

寺に大野の主だった町方有力者が集まった。家康より軍用金調達を要請されたのである。突然の出来事にまだ事態を理解できずにいる一同は、不安の眼差しでお互いの動向を探りあった。

そんな時に寺憎の案内で一人の女子が案内され入ってきた。その女性の顔を見て家康は驚きのあまり立ち上がった。

まさか母が訪ねて来る筈がない。

「家康殿、この度の一大事、御無事であられ何よりです」

お大の実姉お上であった。三河形原の松平家忠に嫁いだが、父水野虫政の死後、お大と同じ理由で離縁となり、後に大野の光明寺住職浄祐に再縁していたのであった。

家康は思わずお上の許に駆け寄った。

「あなた様を母上と見間違いましたぞ。これまでの危難、土民に襲われ何度死を覚悟したやもしれぬ。その度に母が耳元で、死にますまいぞ、まだまだ生きるのです。と語りかけるのです。どんなに勇気づけられたか。やっとの思いで尾張の国まで辿り着いたのは母のお陰。そこにあなた様が現れ、よもや母がと涙が零れてなりませなんだわ」と家康は拳で眼を拭った。

「大野まで来たものの、この先いつ何時明智に味方する者や落人狩りに襲われるかもしれぬ。それにはどうあっても軍用金がいる。今方々にお願いしておるのだが色よい返事が頂けぬようだ」と座を一瞥した。

「そげなたわけた。皆の衆、無事家康殿を岡崎に送り届け、大野町方の意気込みを見せましょうぞ」

お上の力強い言葉に、東龍寺檀家頭の薬屋市左ヱ門はじめ皆挙って軍用金を調達し差し出した。

夜半になった頃、半島の東にある岩滑城より中山勝尚が二十五騎を従え馳せ参ず。勝尚もお大の妹の子である。父勝時はこの時に二条城で壮烈な最期を遂げていた。

家康一行は闇の中を発つ。道の先々に先鋒隊が手配した村人が灯りを点け道案内となった。軍資金が物をいったのである。

常滑の多屋から板山を越え成岩の常楽寺に入り休憩する。常楽寺の典空和尚は洞山和尚の弟で家康とは従兄弟にあたる。家康の生母お大は直接には関わりがあったわけではないが、お大の血の繋がる人々に救けられ危機を脱したといってよい。

成岩ヶ浜より手配した船で三河の大浜に向かった。折しも三河の黒い山の頂より深紅の朝日が昇りはじめた。家康は九死に一生を得た喜びに、身体中の力が抜けていくのを感じた。だが頭は妙に冴え、明日からの天下取りの夢物語がめまぐるしく展開していた。

文・本美信聿(郷土史研究家)



家康と共に堺を脱出した穴山梅雪は途中で家康主従と別れたが、宇治川の渡しで土民の襲撃をうけ殺害された。いかに家康が運に恵まれたかがわかる。

東龍寺には寺宝として家康画像がある。若き日の家康を伝える珍しいものである。

家康上陸地として別に常滑市市場の柴船権現、保示の正住院前との説もある。また家康逃亡の道筋に様々な家康伝説が残る。

常楽寺

常楽寺にはこの時に家康から下賜されたと伝う馬の鞍鐙はじめ家康縁りの品々を寺宝として伝える。