常滑城

文化を愛した城主たち

室町末期のこと、小川城(東浦町)の水野下野守は末子の喜三郎忠綱に常滑進出を命じた。東海道の裏街道として三河湾より知多半島を横断、伊勢湾を渡り伊勢に通じる交易ルートを確保せんがためである。

常滑の地に入った忠綱は村の巽(南東)の方角にある小高い丘に城を築く。西を望むと白波が荒々しく浜辺に打ち寄せる。穏やかな三河の海と比べて、海も空も澄みわたり明るかった。

常滑は平安末期から室町時代にかけて日本最大の陶器生産地であった。忠綱が入部した頃には往時の面影はないが、まだ山の斜面を利用した登り窯から煙りがたなびいていた。忠綱は城を築くと同時に雲関珠崇和尚を招き天沢院を創建した。また城の鬼門(北東)にあった大善院を再建し鬼門除に境内のビシャクシンを神木とした。

当時、京の都は合戦に明け暮れ焼け野原と化し、戦乱を避けた公家や連歌師が諸国へ逃れた。常滑城へも多くの都人が逗留し、忠綱は彼ら文化人の影響を受け、連歌では一廉に知られるようになる。晩年は仏門に帰依し、自ら一党斎と号し世俗を離れ隠棲生活を楽しんだ。

常滑城主は代々監物と称す。二代城主の山城守の時も多くの文化人が常滑城に滞在し、城内は文化サロンのような雰囲気があった。そんな中で育った三代城主の守隆(直盛)も早くから里村招巴に連歌を学ぶ。茶人としても世に知られる。

守隆に嫁いできたのが刈谷・小川城の水野信元の娘である。守隆は摂津河口攻めで先陣の一人に命ぜられるなど織田信長に従い多くの合戦に参加しているが、元来戦さが苦手で水軍を率いて物資の輪送にあたることが多かった。鉄砲の火薬など入手するため堺商人とも深い繋がりを持つようになる。中でも天王寺屋津田宗及とは心許せる親友ともいえる仲となった。

元和元年(一六一五)、白髪がめだつ老女が常滑を訪れた。今ではすっかり荒れ果てた常滑城跡を南に望む地に、しばし感慨深げに佇んでいた。

「これは、これは、奥方様、お早いお着きで。ご一報下されば出迎えましたものを」

庄屋の衣川八兵衛はよほど急いで駆けつけたものとみえ息せき頭を下げた。老女は常滑城主水野守隆夫人であった。

「あれからもう三十年になりますかえ。すっかり変ってしまって。あの日の出来事が、つい先日のことのように眼に浮びまする」

あの日とは天正十二年(一五八四)六月三日深夜のことであった。城門を慌ただしく叩く物音に城内は騒然となった。本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に討たれ、徳川家康主従は堺から必死に逃れてきたのだという。直ちに金子、馬、食糧などを整えてもらえないかとの依頼であった。留守役の衣川八兵衛とともに守隆夫人も城下の街道まで駆けつけた。暗闇の中、篝火が揺れる所に徳川家康の一行は休憩していた。家康とは従兄妹の関係になる夫人に気づいた家康は人払いした。守隆は京の茶会の準備で信長に従っている。その安否を気遣う夫人に、「どうやら監物殿は明智に従っているような報せもある。この先何が起こるやも知れぬ。城内の方々も軽はずみな行動はせぬようにな」

夫人は天地がひっくりかえったほどの出来事に、何と答えてよいものやらオロオロするばかり。

「人の宿命ばかりはどうにもならぬものだ、このわしも昨日今日何度死のうかと思ったやも しれぬ。だが今、こうして生きている。生きていることが大事なのだ。だからこそ災い転じて福と為すこともできる。監物殿もまだ戦さに巻き込まれ討ち死したとの報もない。案じられるな」

この二日、寝食を忘れ走り九死に一生を得た人と思えぬほど力漲る家康が凛々しくもあった。

「難も幸い、わしは天下をとるやもしれぬわ」

呵呵と大声で笑う家康が頼もしく思えるとともに、争うことを好まぬ小心な守隆の身がますます心配でならなかった。

守隆は、たまたま京の宿舎に引き上げていたため、難を逃れたが、その後、自らの考えも定まらぬまま明智に従ったため、常滑城を放棄したことになる。そのまま常滑には帰ることなく京で連歌、茶の湯で風流三昧の日を送る。守隆にとって好まぬ戦国武将の道より幸いであったろう。

常滑城は新しく尾張国主となった信長の子信雄の支配となり城内家臣もそのまま仕える。守隆の嫡男新七郎を盛りたてんとした矢先、その年の小牧合戦で新七郎が戦死。その後、高木広正の所領地となり広正が城に入る。天正十八年に高木広正の国替問題で常滑城は廃城となる。

守隆夫人はしばらく常滑に屋敷を構え滞在したが城が廃城となった後、居を熱田の須賀町に移し、 家康より二十人扶持を賜る。熱田では常滑様と慕われ、熱田の大山祭の募一張を寄進している。

「風の便りに、監物様も一昨年に亡くなられたと聞きます。あの人はあれで満足な生涯を遂げたのでしょう。尾張様(義直)に城を望む地に亡き夫の菩提を弔うため寺院の建立を懇願したところ許されましてね。ここに建てたいと思うのですが」

「それは結構なことでございますな。私も殿様と奥方のためならどんな骨折りもいたしまする」

二人の老人は、南の雑木雑草の覆い繁る小高い丘をそれぞれの懐いを描いて見あげた。

奥様が亡くなったのはこの三年後のことである。

文 本美信聿(郷土史研究家)



常滑城は東西七十五間、南北十一間で四方に二重堀があったという。現在は削り取られ跡形もない。天理教常滑分教所が城蹄と伝う。

初代城主水野忠綱夫妻の墓は常滑城跡を眼下に望む高台の天沢院にある。天沢院は元は瀬木にあったが、後に衣川八兵衛の屋敷跡の現在地に移る。

三代城主守隆の墓は京都嵯峨の天竜寺永明院にある。夫人は常滑様とか総心尼とか呼ばれた。墓は常滑城の南(現常滑小学校辺り)に自ら創建した総心寺に葬られた。総心寺は宝暦の大地震で倒壊したため、常滑の現在地に移る。

城の鬼門除、大善院のビヤクシンの老木は、樹齢五百年の今もなお枝葉を四方に拡げている。

家康が上陸したと伝う地に柴船権現が祀られ、今も権現祭りが行なわれている。