岡部城

早百合姫と若者の恋。

古く内海谷(南知多町)は谷深くまで海水が湾入していた。天然の津(港)としての地形の利をみて宮山(常滑市大野)の一色範氏は谷の東南端に城を築く。室町時代初めのことである。伊勢湾の航海権を制圧することは、南朝方(伊勢)の押さえと、東国より京へ物資を安全に輪送する交易ルートを把握したことになる。

一色氏の重臣に、近江国(滋賀)甲賀の小佐治より佐治氏を迎えた。一色、佐治は修験道出身の縁による。

一色一族内の家督争いに乗じて佐治は主家を凌ぐほどに台頭した。当時、内海庄は京都大智院領で、伊勢湾を航行する船舶や、内海の津に停泊した船より船税を徴収して年貢として納めていた。それを佐治は奪い取った。また主家の一色氏を知多より追い出し、さらに知多半島の先端にある師崎の幡豆崎を奪う。幡豆崎は伊勢湾と三河湾を結ぶ重要な要衝であった。

南知多での支配権を得た佐治備中守為縄は、守るに難い一色城を放棄して、城を内海谷西方、岡部の地の四方を一望に眺める山に移す。山上を切り拓いて要害堅固な山城とした。城下の北の風呂谷に亡き父遠江守追善のため性海寺を創建した。また城の南には亡き母追善のため宝樹院を創建する。城下の平地には家臣団の屋敷が軒を並べた。これらの寺院らは、いざ合戦となれば、重要な砦や前線基地となった。

朝露の流れる性海寺に備中守の娘、早百合姫が祖父の墓詣でに侍女を伴って訪れた。突然境内に空気を裂くような激しい気合が走った。一人の若者が剣術の稽古に汗を流している。早百合姫は松樹の蔭より窺い見ると、ハッと胸がときめいた。あの時の若者だと思った。

一月も前の小春日和の午後のこと、早百合姫は侍女数人と山遊びに、城麓を西へ小野浦に抜ける 山道、ころば坂を登っていった。ススキの穂をふりつつ歩く娘らの華やかな嬌声が谷間に流れる。色鮮やかな蔦紅葉が秋風に揺らいでいた。

「まあ、きれいな赤い葉が」

早百合姫は山裾に幹を伸ばしたウルシの枝に手を触れた。その時、山際の斜面のクマザサが揺れ一人の若者が転がり降りてきた。

「そりや、カブレの木だ。触っちやあかん。かぶれてしまうぞ」

道端に咲く野の草木や茸のことを朴訥に語る若者に、早百合姫は心魅かれた。見るもの聞く ものみな驚くことばかりで、いかに世間知らずで育ったか思い知ると恥ずかしさに顔を紅らめた。

若者の言葉でいつまでも覚えていることにカラスウリの実の話がある。真赤に熟れたカラスウリを割ると中の種をだし、 「この種が恋文と似ていてね、玉章(たまずさ)というんだ」

種をよく見ると文を結んだようにみえた。

松の蔭で見守る早百合姫の胸にあの日のことが蘇った。姫の気持を察したのか侍女が、 「あれは馬廻役の岡部太郎と申します」と囁いた。

早百合姫は自分の心を見透かされたようで、羞恥に顔を染め、その場を小走りに去った。

城下の宝樹院の南に白砂の海岸が続く。冬風の鈴鹿おろしが激しく吹きつけた翌朝の浜は、波のうねりに似た風紋が美しく刻まれた。早百合姫はそんな砂浜を歩くのが好きであった。肌寒い潮風にも、太郎のことを想うと胸がしめつけられるようで熱くなり、身体がほてってならなかった。

岡部太郎とて同じ気持であった。あの山道で出会った娘を想うと寝つかれない夜がつづいた。だが娘が殿様の姫であることを知った太郎は、これほど身分の違いを恨んだことはない。諦めようとすればするほど想いはつのるばかり。

備中守は戦国武将の例にもれず武術好みで、内海谷十一ヶ村の若者に農村武術の棒の手を奨励し、中でも優秀な者は家臣団に加えた。岡部太郎もその一人であった。毎年五月の端午には魔除けの菖蒲を尚武に例えて武術大会を催した。

早百合姫は淑やかな姿に似合わず薙刀の名手であった。嫡子九兵衛が神経質で学問好きなのに、早百合姫が男であったらと嘆く備中守であった。それだけ姫が可愛くてならなかった。その姫の、今年の武術大会の勝者に嫁ぎたいとの申し出に驚いたが、さすが武芸に長けたわしの娘と承諾する。

秘かに早百合姫の意を知った太郎は、八幡社に願かけの水垢離し猛烈な稽古に励んだ。

端午の日の武術大会、憧れの姫を嫁にできると、若侍たちは奮い立ち技を競いあった。姫の幼き頃の許嫁で家老の子息、吹越次郎だけは裏切られたようで呆然と立ち竦む。試合は、神がのりうつったかと見違うばかりの岡部太郎の俊敏な武技に悉くが敗れさった。決勝には太郎と次郎が勝ち残ったが、次郎は無残にも面を打たれ傷ついた。

その夜、面目まるつぶれの吹越次郎は家臣に唆され、下級武士同輩のお祭り騒ぎの祝杯で酔いつぶれた太郎を闇打ちする。浅手の傷を負っただけで太郎は難を逃れた。次郎は城へも帰れず何拠となく出奔して去った。

関ヶ原合戦で備中守はじめ主だった家臣団は徳川方として参戦した。婚礼を間近に控えた岡部太郎ら僅かな留守役が城に残る。早百合姫と太郎の幸せな日々がつづいた。そんなある夜、西軍の九鬼水軍が岡部城に押し寄せた。恋に破れた吹越次郎の恨みの手引きによるものだ。太郎は僅かな手勢をまとめ奮戦した。早百合姫も薙刀にて女衆を指揮し目覚ましく戦った。だがもはやこれまでと二人は手をとり、未だ契りも結ばぬ身なれど、きっとあの世で添い遂げようと固く抱きあい、紅蓮の炎の中に身を投じた。

毎年端午の節句が近づく頃、長い火の玉の列が、まるで婚礼の提灯行列のように城山へ登っていった。きっとあの世で早百合姫と岡部太郎の婚礼が行われているに違いないと村人は噂しあった。

その後の佐治氏は九兵衛の代に衰退し一族離散、岡部城は廃城となる。九兵衛は後に尾張藩御城代組として仕えた。

文 本美信聿 (郷土史研究家)



岡部城は別に内海城ともいう。大永年間(1521〜27)に佐治備中守が築く。城は山上中心に東西六十間、南北三十間、さらに平地四町四方惣家中という大規模なものであったという。史実としては岡部太郎と早百合姫の悲恋は定かでないが、城跡の山上の雑草に覆われた中に岡部太郎の塚がある。そのすぐ西の贋きに内海谷十一ケ村の西方を守護する広目天の石仏が祀られている。

性海寺は後に中之郷村に移るが、さらに内海の東の端の銅山中腹に移転する。深緑の下に仁王門、茅葺きの本堂が静寂そのもので佇む。佐治家一族の位牌と備中守使用の鞍鐙がある。

備中守の亡母供養のために創建された宝樹院は、夏ともなれば交通渋滞が続く国道沿いにある。宝樹院と城山の間に新しく城下公園ができた。