大草城

やっと見つけた平穏の地も・・・

清洲を発って知多に入ると砂浜に白波が押し寄せ、緑の松林と相俟って眩しい。この美しい景色も失意にある織田源五の心を和ませるものではなかった。あれから数か月も経っていないのに遠い昔の日々のようにも思える。そのくせ京雀の「織田の源五は人ではないよ、お腹召せ召せ召させておいて、我は安土へ逃げるは源五、むつき二日に大水出て、おた(織田)の原なる名を流す」と天下の笑い者、卑怯者よと嘲けた唄声が耳にこびりついて離れない。従う家臣に36歳 と男盛りの源五が老人のように萎んでみえた。

兄の織田信長とは十三歳も違う源五は、信長を血の繋がった肉親と思ったことはなかった。敵対する者はたとえ一族であれ悉く殺す峻烈にして情け容赦しない兄に、ひたすら畏怖する遠い存在であった。その信長が安土城に源五を招いた。いつになく優しく、今までの功に労いの言葉をかけた。

「それについても心配なのは信忠のことよ。行く末はわしを継いで天下を治める身。心許す後見役がほしいのだ。源五殿を見込んでの頼みじゃ。ひとつ信忠を補佐してくれ」

ありがたい言葉にただ床に平伏した源五の目頭に、熱い涙がとめどなく溢れ落ちた。

その後、信忠に従い甲州攻めから凱旋。天正十年(一五八二)六月二日の早暁。本能寺で織田信長は非業の最期を遂げる。明智光秀謀反の報を、茶会の席で親しくなった里村紹巴より得た源五は、信忠様だけは無事生き延びてほしいと、妙覚寺から二条御所に移り、誠仁親王ら公家衆とともに脱出すべく手配に奔走していた。そこへ明智の手勢が二条御所に押し寄せる。最早これまでと信忠は切腹する。このことを人々は源五が切腹を勧めたと噂したのだ。

光秀は羽柴秀吉率いる織田軍に討たれた。その後の政策を話し合うため清洲で織田家重臣会議が開かれる。家督相続で紛糾すると、信忠様さえご無事であったならと、人々の冷たい視線が源五に注がれた。その場にいたたまれない気持ちであったが、信長亡きあとの織田家の重鎮として耐えた。

信忠の遺児三法師の後見役として実権を握った秀吉より「源五殿は信長様の弟御。信長様のお子信雄様の補佐役を引き受けて下さらんか」と命ぜられた。信長の死のため天下が転がりこんだ秀吉の好意であったかもしれないが、源五には胸に突き刺さる痛烈な皮肉がこめられた言葉であった。

信雄の家臣となった源五は、何かにつけて叔父よと頼ってくれた信忠と違い、傲慢な信雄と反りが合わず、清洲より遠く離れた所領地のひとつ大草に龍もることが多くなった。

大草に到着すると早速、大野谷を挟んだ対岸にある大野城より佐治与九郎の留守居役が訪れた。

「源五様は主人にとって母御にあたるお大様の兄上。いわば親戚も同様。何かと誼みのほどを」

にこやかに挨拶する。

南を望むと入江の向こうの山の頂に小さな城が見える。「そうか、お犬が嫁いだのは大野であったか。お犬とは歳も違わぬ」姉のお市に似て美貌で評判であった。夫の佐治八郎が長島一揆攻めで若くして戦死、その後、京の細川昭元に再縁した。京へ帰った折、病に伏せていると聞き見舞ったが、あの美しい面影はなく余命幾許もないほど痩せ細っていた。どうしているやら。源五は懐かしさがこみあげてきた。

「与九郎殿は茶湯を嗜むという。親しくなれそうだ。そういえば常滑の監物殿の城も目と鼻の先ではなかったか。監物殿も本能寺の乱で生き延び光秀に従う羽目になり、わしと同じように”監物は人に非ず”と蔑みをうけた。だが監物殿は潔い。城を棄て京に隠棲し好きな連歌や茶三昧を楽しんでおられるときく。羨ましいものだ。それにひきかえ、このわしは未練にも一万石の給知を頂いておめおめ恥を忍んでおる。情けないことじゃ」

源五は我が身の優柔不断ぶりを悔やみ、不遇な運命を嘆かずにいられなかった。

大草には室町幕府の重臣一色氏が築いた館跡があった。今では荒れ果て雑木林と化してしたが、 ここに城を構えることに決めた。城下まで堀を築けば入江より舟が入る。海運の便もよい。

源五は城を築くことで嫌な過去を忘れたいと、すべてを築城に注いだ。城普請の様子を見るのが毎日の日課であった。雑木が伐採され丘が削られしだいに城らしき地形が出来上がっていく。本丸、二ノ丸、三ノ丸、内堀、外堀と形が整っていく。北に大手門、南に溺手門と決めた。土砂や石垣を運ぶ人夫、木材を削る大工、大草の里は人々の往来で活気づいていた。

そんな時、信雄の重臣達の謀反が発覚、佐治与九郎もそれに連座して伊勢に逃れた。源五は大野も併せて領地とする。大野は商人町として栄えていた。源五は大草城を中心に尾張の玄関口として、海運による堺のような町にしたいものだと夢を描いた。そんな矢先の長久手合戦。暫くして秀吉より御伽衆に召され但津国へ国替を命ぜられる。

摂津へ旅立つ日、源五は未だ完成しない大草城の地に立つ。やっと平穏の地を見つけたのに。自分の運命の流転を嘆き、涙が零れてならない。滲んだ涙の向こうに、聳えたつ幻の大草城が浮かびあがっては消えていく。

文 本美信聿(郷土史研究家)



織田源五郎長益は信秀の十一男。大草城退去後、秀吉の御伽衆として仕え、従四位下・侍従。剃髪して有楽と号す。茶道に長じ利休七哲にかぞえられた。利休死後、茶道有楽流の祖となる。大坂城の豊臣秀頼の補佐役となるが、冬の陣で家康と内通していると疑いをうけ、夏の陣直前に京に隠退。七十五歳で没す。建仁寺塔正伝寺を再建し織田一族の香華所とした。境内に建てた茶室「如庵」は後に犬山市に移され国宝に指定される。源五の江戸屋敷跡は有楽町、数寄屋跡が数寄屋橋として源五に因む名を今に残す。

大草城は江戸時代に入り大草を領した山澄淡路守英龍が城跡に屋敷を築く。明治十一年になって山澄氏より大草村に売り渡された。本丸東西五十七間、南北四十七間。二之丸東西四十三間、南北三十一間が士塁、堀跡ともに現在に残る。一帯は大草公園として城跡をめぐる遊歩道もある。昭和五十四年に本丸跡に城の形の展望台が設けられた。城の東北にある津島神社は、鬼門除に牛頭天王社を祀ったものである。