木田城

戦国の悲哀を背負って。

知多半島西北部にある荒尾七ヶ村の地頭の荒尾氏は鎌倉幕府、室町幕府の奉公衆として仕えた。伝えによれば、荒尾郷の富田村で没したという稀代の美男子、在原業平の末孫だという。

荒尾小太郎空善には世継ぎに恵まれなかったため、大野城の佐治家より善次を婿養子として迎えた。荒尾氏と佐治氏は同盟を結び、強大な今川方の庄力に抵抗したのである。

空善は織田信長の配下として今川方の村木砦(東浦町)攻めに加わった。その帰途、今川に組した花井氏の居城の寺本城(知多市八幡)の城下を焼く。さらに、今川方の攻撃に備えて荒尾郷の南端にあった一色左馬助が築いた木田城を整備し、本拠をここに移した。

花井氏も木田城の目と鼻の先に薮城を築き一族の惣五郎を据えて相対した。

半島は今川と織田の最前線となり、合戦が絶える日がなかった。そんな時、信長の弟の信時に嫁いでいた善次の娘が、悲しみにくれ木田城に戻ってきた。夫の信時は信長の兄弟でも一番賢く、信長の信頼厚く守山城主となった。だが前の城主の家臣に謀殺され非業の最期を遂げたのである。いつどこで命を落とすかわからないのが戦国の世のならい。悲嘆にくれる娘へ慰めるのも憚れた。その悲しみの涙が乾かぬうちに、義父の空善が今川との戦いで討死するという非運が相次ぐ。

当時の織田信長は八方を敵に囲まれ四面楚歌の状態にあり、家臣団の結束に気を配っていた。度重なる荒尾家の不運を哀れに思ったのか、若くして夫を失った善次の娘を、信長の乳兄弟で近衆の池田恒興に再縁させる。

永禄三年(一五六〇)の桶狭間合戦で今川義元を敗ったのを境に知多の勢力は次第に織田方に傾きだした。この間、木田城において今川方の攻勢によく耐えた功労で信長より荒尾善次に恩賞が下賜された。

しばし平穏な日々がつづいた永禄七年の大晦日、善次は木田城より西の空を望む。黒く連なる鈴鹿の山峰に朱色に燃えた落陽が今まさに沈まんとしていた。幾重にも積み重なった雲は茜色に染まり、雲の間々より光の帯が伊勢の海に射しこんでいる。煌めく波は黄金色に彩どられ荘厳そのものであった。遠い昔に忘れていた風景が蘇ったようで感動が胸内に溢れた。しばし時を忘れて佇んでいた。

「美しい眺めでございますねえ」

その言葉に我にかえった善次が振り返ると、娘婿池田恒興の母、養徳院が幼い孫の勝九郎(之助)を手に微笑んでいた。

「おお、これは母さま。戦さに明け暮れる毎日に、これほど安堵であることの喜びを知りませんでしたわ。これも年でしょうかな」

五十の坂を越え、髪に白いものが目立つ老いた我が姿を見て言った。

「ええ、こうして素晴らしい光景を前にしますと、争いのない世がいかに尊いかがわかります。わたしはこのお城が気に入りました。これからもしばし寄らして下さいな」

城の下まで波が寄せては返す。城の北に天台宗の名刹観福寺がみえ、その西に長源寺の甍がつづいていた。辺りはすっかり闇に包まれようとしている。

織田信長の幼少時、癇癖が強くどんな乳母でも乳首を噛切るため乳母のなり手がなく困り果てていた。そこへ養徳院が引き受けたところ、今までのことが嘘のようにおとなしく乳を吸うようになった。気性の激しい信長様でも養徳院夫人には頭があがらないとの噂であった。木田城へは恒興の嫁が臨月を迎えての里帰りに付き添ってきたのである。

木田城内は慌ただしく動く女共で緊張が漂っていた。だがいっこうに生まれず苛立った中で、晦日の夜は過ぎ新年を迎える除夜の鐘が観福寺より響きわたった。その時、赤児の産声が一際高くあがり城内の一同はホッと安堵の息を漏らす。この赤児は旧年と新年にわたって誕生したため古新丸と名づけられた。

荒尾善次の嫡子善久は三方ケ原の戦いで討死した。善久には弟が二人いたが、善次は古新丸が いたく気に入り、恒興に頼み養子に迎える。荒尾古新丸は僅か五歳で木田城主となったのである。その後、荒尾一族は古新丸の家臣として仕える。長久手合戦で父の恒興と兄の之助が戦死したため古新丸は池田家の後継ぎとなり池田輝政と名を改めた。

善次は輝政の補佐として、輝政が東三河十五万石に移封された時も従い、その地で八十三歳の生涯を終えた。

輝政は関ケ原の合戦後、播磨・備前・淡路を領し併せて八十七万石の大名となり西国将軍と称えられた。

養徳院は九十三歳という長寿を全うする。また輝政の母は養徳院に先立つこと四年で亡くなる。両人とも古新丸が姫路宰相として栄達出世した姿をみて幸せに一生を終えた。輝政は祖母追福のため京の大徳寺に養徳院を、母のために相国寺に善応院を創建した。善応院開基の椿西堂和尚は佐治氏の出で、善次の甥にあたる。

文 本美信聿(郷土史研究家)



木田城跡は名鉄河和線高横須賀駅の東の山にある。東西二十間、南北三十間、内堀の跡もあった。玄猷寺(東海市富木島)の門は城の古門を使用したという。

荒尾一族の菩提寺は運得寺(東海市荒尾)で、一族の墓と位牌がある。一族より臨済宗の本山妙心寺三世無因宗因禅師が出た。

池田輝政の誕生地については、清洲城(名古屋市)、平島城(東海市荒尾)などの説もある。

池田家に仕えた荒尾氏は代々重臣として勤め、中でも荒尾志摩は江戸時代の名家老として知られる。