義朝の最後と長田忠致

凍てつくような底冷えの寒さが夜更けまでつづく、平治元年(1159)の十二月大晦日であった。

その夜、長田館に不意の訪問者があった。「義父殿、お達者な様子何よりでござりまする」と頭をさげた正清の姿を見て驚いた。あの快活な若者が別人と思うほどに変貌していた。もう二十年余も会ってはいないが頬こけた顔に苦労のほどが偲ばれた。

「これは正清殿、いかがなされたか」

長田館の主、野間内海荘の荘司長田忠致は鎌田正清(政家)の娘婿であった。

源義朝と鎌田政家主従の出立ちは、甲冑に身を固めたとはいえ、汚れ千切れ、あまりにみすぼらしい格好であった。

源氏の棟梁源義朝は飢えと寒さに憔悴して、身を震わせ「よしなに頼むぞ」と声をかけるのがやっとであった。

酒肴でのせいいっぱいの饗応に、義朝主従は話す言葉もなく、ひたすら飢えた野犬のように貪り喰い飲んだ。やっと生きた思いがしたのか肌に生気が蘇ってきた。

ポツリと語りだす言葉によれば、京で天下を二分する激しい合戦があったという。戦さに敗れ美濃の青墓より杭瀬川を柴舟で下り、海岸線に沿って義朝の舅である熱田大宮司を頼るべく舟を進めたが、折からの大潮で干潮となる。柴舟は平底のため舵も思うにまかせず伊勢湾を潮流に乗って流れ、やっとの思いで内海海岸に漂着したのだという。口数重い中でこれだけ語った。

忠致の胸中は複雑であった。世の情報に疎い片田舎のこととはいえ、落武者を囲ったという事実に一抹の危惧があった。別に義朝と争った平清盛の名に先祖の血が熱く激る。忠致の祖良兼と清盛の祖国香は兄弟であった。桓武天皇を始祖とする桓武平氏である。だが一族兄弟の争いが将門の乱の発端となり、東国での勢力を失う。伊勢と尾張に新天地を求めた良兼の孫致頼は、国香の孫維衡と伊勢の支配権をめぐり再び紛争。朝廷の裁きで敗れ隠岐に配流、一族は流浪の身となる。四代後の行致は河内(大阪)の門真に居を定め、子の忠致は尾張の知多半島の野間の、葦繁る湿地を開墾し、苦労の末やっと荘司の地位につき定住の地を得たのだ。それに比べ維衡の子孫は伊勢の財力を背景に栄進一途を辿る。清盛は先祖代々の仇敵であった。

義朝主従は心身とも疲労困憊にあった。朽木が倒れるように横になると大びき叫で寝込んでしまった。やっと口を覚ました頃には昼も過ぎていた。この間尾張困司の使者が義朝を捕えよとの下知を伝えた。罪人を囲った事が露見すれば長田氏を滅ぼすことになりかねない。若く夢も野心もある忠致の悴景致の気持ちは微妙に揺れた。

疲れた義朝を長田館の西にある薬師堂の湯が湧く湯殿へ案内した。郎党の橘七郎、弥七兵衛、浜田三郎に殺害を命じた。裸の義朝は「一本の木刀たりとあれば」と非業の最期を遂げる。

このことを露知らぬ忠致と正清は館で談笑していたが、ただならぬ気配に正清は太刀を身に寄せる。そこへ長田の郎党が殺到して正清を取り囲んだ。

「さては義父殿謀りおったか」

ただ狼狽えるばかりの忠致に、「もはやこれまでよ」と腹に刀を突き刺した。このまま義朝が東国に逃れたところで、敗者に靡く者もいまい。再起することの困難さは承知していた。これまでも幾度も義朝は自害しかけたのを正清は諌めてきたが武運もこれまでと覚悟したのだ。

都へ義朝と正清の首を持参した長田虫致はその恩賞として壱岐守に任せられる。今に例えれば地方の一市長がいきなり知事に抜擢されたような大出世であった。

平家滅亡後、義朝の子の頼朝が征夷大将軍となり、野間で亡父義朝と正清の菩提を弔うため大法会を催した。それに先立ち、長田父子を亡父の墓前にひきすえ板に逆礫けにし生木で打ち殺したという。

駿河にも長田父子がいる。平家方の将として頼朝に敵対したため梟首された。『平治物語』はこの事実を混同して伝えたのであろう。小心者の忠致は頼朝の出世を知り、世を恐れ壱岐(長崎)の住吉に隠れるように蟄居した。後に、その子孫は玄界灘を舞台に活躍している。野間で礫にされたとすれば景致の方であろう。

長田忠致は、知多の開拓の祖として後々までも長田の名を留めたに違いない。ただ源義朝が野間に来なければである。公家から武士社会へと歴史が移り変わる時代の激流に、川瀬を流れる笹舟のように、思いもかけず翻弄された人生でもあった。

文・本美信聿(郷土史研究家)



長田館(屋敷)は美浜町野間の名鉄内海線野間駅の西にある。主殺しの不浄の地として現在も荒地となっている。

頼朝が亡父のために建立した大御堂寺(大坊)は七堂迦藍の大寺院であった。義朝・鎌田の墓、首を洗った血の池など、その周辺に義朝に因む史蹟めぐりができる。

長田父子を磔にしたという松は密蔵院の裏山(長田山)にあったが先年枯れる。この山より出土する蟹の化石を長田蟹という。また野間近辺に出没し稲を食い荒らす蟹の甲羅模様が醜く凄い形相をしていることから、長田の怨念のこもる長田蟹と呼ばれた。義朝が最期を遂げた湯殿跡は野間駅の東の法山寺下にある。