戦より茶の湯、連歌を愛する

常滑城主 水野監物守隆

秋風が庭先を掠め、樹梢の葉ずれが音をたてる。忘れていた音のようだ。白砂の浜を転がる貝殻の音であったか。釜で湯だつ音は潮騒にも似ている。瞼を閉じると何もかもが懐かしい音に聞こえてくる。

「如何いたしたかな監物どの」

千利休の言葉に、はっと我に返った水野監物守隆は年甲斐もなく狼狽え顔を染めた。静寂な茶室の床には宗家の小倉色紙が掛かっている。利休の面には南蛮芋頭の黒ずんだ水差が置いてある。織田信長が本能寺で討たれ早や2年の月日が過つ。久方に利休に招かれての茶席。昼よりはじまり、話は弾むでもなく、途絶えるでもなく、淡々と時だけが過ぎていく。

尾張の知多半島のほぼ真中にある常滑城は、緒川城の水野一族が伊勢湾と三河湾の交易ル−トを確保するために築いたものである。初代忠綱も2代目山城守も連歌や茶の湯を好んだ。京は戦乱の最中、東海道の裏街道でもあるこのル−トは京を逃れた公家や文人墨人が利用した。常滑城は彼らの格好の宿舎で、地方では珍しい文化サロンのような雰囲気にあった。そんな環境で育った守隆は戦国武将には向かない。守隆が紀三郎と名乗っていた頃、京の公家山科言継が常滑城に立ち寄った。あいにく守隆は南の桧原へ鷹狩に出かけて留守であった。次男の八郎次郎が伊勢まで案内し礼に和歌3首を頂戴したと知り、城内を子供のように嘆き悔しがった。織田信長が上洛し京周辺を支配下に治めると守隆も従う。信長は守隆の長所を見抜き、城普請や、常滑水軍を織田軍団の輸送船団とし、物資運搬面の仕事を命ずる。必然ながら堺の商人との交易が深まり、温厚な津田宗及とは無二の親友となった。

常滑城には守隆の妻が居た。水野一族の宗家信元の娘である。2人には嫡男新七郎がいたが、守隆が常滑城廃棄後の小牧合戦で討死、17才の短い人生を終えている。

京での生活が多くなると常滑への足は遠退き、たまに常滑に帰っても、陶工の茶湯に使う新しい茶碗の工夫、指導らに奔走。城に腰を落ち着ける暇もない。 部下を使うに過酷なほど働きを要求する信長だが、合戦でこれといった手柄をたてない守隆を、裏方として活躍と重く用いた。守隆が京の宿舎に戻るときは決まって疲労困憊であったが、待ちかねたように津山宗及や里村紹巴を招き、茶の湯や連歌を楽しんだ。あれほど疲れきった身体に活力が蘇ってくるのだった。水野監物守隆こと守監は、この道では一簾知られた人物となっていた。このまま武将をやめて茶人になれたらといつでも思う。そういったところへ明智光秀の謀反である。たまたま京に滞在していた守隆は渦中に巻き込まれ連歌を通じて親しい光秀と行動を共にすることとなった。比叡山を焼き払った信長を討った光秀を褒めそやした京雀は、光秀が秀吉に敗れると掌を返したように、信長を裏切った「水野監ものは人でなし」と噂しあった。世の中の裏表、策謀と猜疑の様をみるにつけ、何もかもが嫌になった。常滑城を棄て、妻子を忘れ、頭を丸め無一物になって嵯峨野に隠棲する。皮肉なことに守隆の長年の願望が叶ったのである。

明智謀反の事を口にするのはタブ−であった。守隆は謀らずも光秀と行動をともにしたが、里村紹巴も千利休も皆光秀決起を知っていたのではないか。守隆が垣間見るに、天皇を廃止しかねない信長の考えに危惧した正親町天皇の意をうけて光秀が行動を起こしたと推測する。墨を刷毛で撫でたように闇へと時は刻む。

「あのことは(利休)宗易どのも・・・・」

利休も信長暗殺に関与していたのではないか尋ねようとしたが、利休は疑問に応えずすっと立ち、躙口より庭に出た。

「おお、今夜は満月であったか」 と独り言のように呟き、菊一輪を伐ってきた。再び茶室に入ると、竹の花差しに挿した。

「監物どのが羨ましい・・・誠に羨ましい」

世俗を離れての風流三昧の守隆に比して、野心もたっぷりある己が身の不自由さに、真実は誰も知らぬがよい、知らぬがよい、と戒めた。連子窓より零れた月明かりにキリッと純白の菊が輝いてみえた。 利休は黙して語らぬ菊を我が身に例えたのだろう。だが、守隆が見ていたものは庭に輝く満月であった。伊勢の海に煌々と輝く満月を想い浮かべていた。故郷常滑には未練はないが、なぜか常滑が忘れられぬ。このことは自分でも良くわからなかった。

文・本美信聿(郷土史研究家)



水野守隆は慶長3年(1598)に京の嵯峨野で没す。墓は天竜寺永明院にある。

常滑城跡は常滑市山方町の天理教常滑文教所辺りという。

常滑城の鬼門除に植えられたビャクシンの老木は大善院に今も枝を拡げる。

守隆の妻総心尼は亡き夫を慕い思い出の地に総心寺を創建。創心尼の墓がある。

守隆と総心尼の子新七郎は小牧合戦で討死したが、後に岩滑城の中山五郎左エ門の子を養子に迎え水野家を継ぐ。

守隆と京の妾との子河内守信は後に江戸幕府の大目付に出世、沢庵和尚とも交友があった。