知多半島の山車  
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からくり人形

第1回 「からくり人形」

「からくり人形」
■カラクリの歴史は古代エジプトより
■和時計の元祖は尾張から
■からくり人形には神が宿る
■尾張のからくり人形
■知多におけるからくり人形の始まり
■宝暦頃のからくり人形
■大野のからくり
■人形浄瑠璃が今も上演されている
■前棚で演じる三番叟人形
■山車からくりにも時代の変遷が
■からくり人形作者たち
 初代玉屋庄兵衛
 竹田寿三郎
 竹田藤吉
 鬼頭二三
 初代隅田仁兵衛
 二代目隅田仁兵衛
 竹田源吉
 五代目玉屋庄兵衛
 土井新三郎
 六代目玉屋庄兵衛
 七代目玉屋庄兵衛
 地元のからくり作者
■南吉と三番叟
 桜花と咲き競うかのように、知多の春祭りは3月の末、温暖な半島の南より春風にのってしだいに北の地域へと上がっていく。豪快に町内を曳き回す山車とともに、祭りの花形は山車の上山や前棚で華麗に舞うからくり人形である。
 見物人をあっといわせる巧妙な仕掛けに、人々は驚嘆し惜しみない拍手をおくる。春爛漫のどかな知多路の風物詩を飾るに相応しい。
 知多半島に山車といわれるものが、山車蔵に秘するものを含めれば百台近くも現存する。その中で、からくり人形を乗せる山車は半数を越える。これは気候、風土とも豊かな土地柄と、江戸時代に入って海運により飛躍的に繁栄した財力が背景にあろう。情報、流通に素早く反応し、新しいものに飛びつく半島に珍しい知多気質にもよる。また、各地区に祭気違いといわれる、祭囃子の音に胸をときめかせずにいられず、365日が毎日祭りという人が多いという存在も忘れてはならない。

■カラクリの歴史は古代エジプトより 

 からくりの歴史は古い。古代エジプトにおいて「カー」と呼ばれる神像が造られたことはよく知られている。巨大なピラミッドを建造した土木技術を思えばすでにテコや、歯車の類が利用されていたとしても不思議でない。日本ではまだ縄文時代でのことであった。
 同じ頃、中国では「指南車」という戦車の一種が造られている。歯車の噛み合わせによってどちらに動いても人形はたえず南を向いているという。
 紀元前500年にギリシャ悲劇に「機械仕掛けの神」が登場する。起重機に似た物で女神像を吊り上げ操ったものといわれる。
 日本においては斉明天皇4年(658)に法門智踰、指南車を造ると「日本書記」みえる。
 さらに平安時代の嘉承元年(1106)『今昔物語』に高陽親王のことが載る。恒武天皇の皇子の高陽親王は細工が上手で評判であった。旱魃の年があった時、親王が建立した京極寺前の田に童子人形を立てた。両手に器を捧げ、器に水を満たすと水が童子の顔にかかるという仕組みになっていて、評判を聞きつけて訪れた人々が面白がって水を運び器に水を満たす。おかげで京極寺の田は旱魃でも困ることはなかったという。
 また、西行法師もからくり人形(声を出す)を作ったとの伝えもある。
 室町時代に入って、座敷からくりが制作され一部の人によって楽しまれる。織田信長や豊臣秀吉も機巧(からくり)を見ている。お互いどんな反応をみせたか興味のあるところである。

■和時計の元祖は尾張から

 尾張は山車からくりの宝庫といわれる。全国の山車からくりの大部分がこの地方に集中する。尾張の山車からくりを語るについて尾張藩における時計作りの発達と無縁でない。
 徳川家康が駿府に隠居していたころ、朝鮮国より贈進された時計が破損したため、京に滞在中の安芸浪人津田助左衛門政之が細工に器用との評判を聞き修理を命ぜられた。すでに当時時計が存在したことは驚きである。後に助左衛門は竹腰山城守に仕え、名古屋城築城後は尾張藩の御時計師・鍛冶職頭として常磐町に住した。
 和時計の元祖津田助左衛門が尾張で時計制作にうちこんでいたことは、この技術は綿々と受け継がれいったであろう。大阪、京都で大流行した竹田座が名古屋で興行を催したときに、それを難なく受け入れる基礎は尾張においては整っていたといえよう。竹田座の人形浄瑠璃に培われてきた時計技術を導入し、尾張独特の舞台を山車上に変じた山車からくりとして華ひらく。
 竹田からくりが、文楽といった人形の微妙な動きや、語りによる芝居の世界に埋没し、からくり本来の、見物人をあっと驚かす機械機巧から廃れていったのに反して、尾張では、移動舞台ともいえる山車の上に舞台を置き換え、祭りという独特の雰囲気の中で演じられる、庶民芸能として老若男女すべての人を観衆として支持されてきた。人形と人とが心と技で結びあい一体化する世界において、今に綿々と生き続けてきたのである。

■からくり人形には神が宿る

 からくり人形の糸は人間にとって血管と神経を兼ね備えたようなもの。一度糸が切れれば、人形の生命は断ち切れ動きを失う。そのすべての動作の源である糸より離れて、ゼンマイ、バネ、歯車の動きによって人形は動く。離れからくりという。片手で逆立ちしたり、樹枝にぶらさがったりして太鼓や鉦をたたく。枝を綾渡りしたり杭を渡って上がっていく、これらの動作に我々は仕掛けを推測するのだが、思いもつかずただ感嘆するのみ。後述するが、横須賀の記録にあるように、目を丸くして暫し眼を閉じるのを忘れたとの光景が現実として想像できる。
 人形は神や人間の「形代」であった。そこに神々の精霊が宿り、不思議なものとして禍いを断ち福をもたらすものと信じられてきた。初めてからからくりを目の前で見た驚きを人々は忘れないであろう。そこに神の意志を信じたかもしれない。
 多くの山車からくりの中でも、その操作に高度の技術を要する「離れからくり」はからくり人形の至極ともいえる。
 一方で、微妙な糸の引き具合で人形が自由に、人間以上の感情表現する糸操りも見逃すことはできない。
 先年、名古屋市中川区の戸田祭りのからくり人形を見物したが、上山人形によるからくり人形の動作は知多地方のそれに比して勝れ熟練されていた。だがそれ以上に山車の麾振り座に坐る麾振り人形には驚嘆した。囃子のリズムにあわせて実に巧妙に麾を振る。単純な動作の中で、これだけ見事に演じきることができる技術に感動すら覚えた。山車によっては人形にタバコをくわえさせたり、鉢巻きさせたりして、それぞれ滑稽さを見る人も楽しんでいる。
 伊勢門水著の『名古屋祭』に次の文が載る。
「麾のふり方に就いても自然に緩急が有って往車、帰り車、曲場等夫れぞれの振り方に皮肉もあり。休息中日傘杯をさしかけた姿もよし。帰りには笠を冠らせ或は、頬かむりや鉢巻杯させて洒落る事もあるが何處の車も此麾振りが中々の愛嬌ものとなってをる」とあるように麾振り人形は山車組の人気者であった。脇役の麾振り人形が主役となり代わるところに山車からくり人形の奥の深さがある。

 
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