知多半島の山車  
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からくり人形

 

「からくり人形」
■カラクリの歴史は古代エジプトより
■和時計の元祖は尾張から
■からくり人形には神が宿る
■尾張のからくり人形
■知多におけるからくり人形の始まり
■宝暦頃のからくり人形
■大野のからくり
■人形浄瑠璃が今も上演されている
■前棚で演じる三番叟人形
■山車からくりにも時代の変遷が
■からくり人形作者たち
 初代玉屋庄兵衛
 竹田寿三郎
 竹田藤吉
 鬼頭二三
 初代隅田仁兵衛
 二代目隅田仁兵衛
 竹田源吉
 五代目玉屋庄兵衛
 土井新三郎
 六代目玉屋庄兵衛
 七代目玉屋庄兵衛
 地元のからくり作者
■南吉と三番叟

 

■宝暦頃のからくり人形

 尾張地区の祭礼を集めた『尾陽村々祭礼集』がある。宝暦5年(1755)の記録で、知多各地区の祭礼の内容も載る。知多半島の山車からくりに関するものだけを抜粋して説明していきたい。
 乙川村について「小烏丸夢之助太刀。楓狩車、役小角大峯桜、富士見西行、各ざいふり下段に居」とある。同じ年に描かれた絵巻『乙川祭礼山車絵図』にもまったく同じ人形を乗せた山車巡行図があり、当時の乙川祭りではこのからくり人形が存在していたことは間違いないであろう。山車については前棚があり名古屋型山車から知多型山車へ移行する過渡期のものとして貴重な資料である。
 「小烏丸夢之助太刀」については、山海の松原に人形が現存している。上野間の北組より買い受けた記録があり、乙川のものとの関係が推測されるが、絵図をみる限りにおいて、人形が名古屋東照宮祭りの初期のものに似て大ぶりであるところから別のものであろう。
 同じ宝暦五年に、知多市八幡の八幡神社にも『八幡宮祭礼式の図』が描かれている。これによれば、獅子を先頭にして山車が三台続く。一番に唐子風の人形二体が乗るが内容まで定かでない。二番めは湯立神事であろう。三番は二福神車で恵比寿大黒と思われる。山車はまったく名古屋型で前述した横須賀の山車も同じ型であると推測される。ただ寺本(八幡)では山車は廃止され文化頃より館を担いで村内を回る行事に変わり、記録、口伝、その物も一切残されていないのが残念だ。
 横須賀、乙川、寺本で早い時期に既に大形の山車からくり人形が山車上に飾られていたことは記憶に留めておきたい。
 『尾陽村々祭礼集』を続けて辿っていきたい。
 大野村の内宮祭礼に「山車一輛車人形業平二條后」がある。この人形は現存していないが、浄瑠璃人形の首が36体あり、明治始めまで上演されてきた。詳しくは後述する。ただ内海の北脇に「業平卿八橋ノ段」があり明和7年(1770)頃上野間より買い受けたといい、この関係を調査すすめる必要がある。
 同じ大野村での牟山権現の祭礼は「糸からくり」があったとある。内容はわからない。牟山権現は文政2年(1819)に社名を小倉神社と改称された。大野村のからくり人形については後に詳しく記したい。
 横須賀村は前記の見物人を驚嘆させた山車もからくりも『尾陽村々祭礼集』にはみられない。「笠鉾二十本木錦幟二十本提灯四十右三品立置」とあり、行列の華麗な様を窺えるにすぎない。
 大谷村には「山車二輛人形橋弁慶牛若猩々唐子二人」とある。古くより橋弁慶と、猩々と唐子があったことが知れる。大谷村の山車は2台とも武豊の大足と東大高に売却しているので、人形もそちら方面に売られたか。
 上野間は「山車二輛、一輛は鐘巻一輛は湯立」とある。こちらの山車も新しく改造された際、内海と山海に売却されており、現存のからくり人形と一致しない。鐘巻は鐘巻道成寺で内海の内福寺にある蛇操りが同種のもので、その関係はわからない。
 布土村については「山車二輛人形ざいふりのせ」とある。現存する二福神は下半田南組のものと思われる。
 長尾村は「天王祭山車一輛人形せうき麾ふり一人」とある。当時山車は一台しかなかった。この鍾旭に関しては、三河の知立に元文5年(1740)6月朔日、壱両弐分にて長尾村え売申候との記録があり、知立より買った人形であることがしれるが現存していない。
 下半田村は「山車三輛、一輛は獅子頭太鼓乗せ、一輛は唐子一輛はゑびす乗」とある。獅子頭は現在の中組の前身と思われる。その内容は明確でないが、名古屋若宮祭りの寿老人車(獅子車)に唐子が獅子頭を着て獅子舞いを演じるものがある。隅田仁兵衛の作であるが参考までにあげておく。
 唐子は北組の唐子車で、初代隅田仁兵衛の名作である唐子の離れからくりが先頃復活して春祭りを色彩っている。年代的にこれ以前の山車に違う唐子人形が乗っていたのであろうが、その人形は現存していない。
 ゑびすは南組護王車の二福神で、明治になって当時の金額で壱千円で布土村上組に売られたことが判明している。宝暦年間のからくり人形がすべて現存していないいま、その当時の人形と推定される二福神が布土にあることは貴重な資料となろう。この人形は山車の上山に飾られ動くことはないが、大ぶりな古い形の人形である。
 名古屋長者町に二福神車がある。元は道成寺車といったが享保17年(1732)に京都の吉田平十郎と竹田近江の合作により、恵比寿大黒のからくり人形が制作され二福神車と改名された。恵比寿は鯛を釣り上げ、大黒が打出の小梯で袋を叩くと袋は二つに割れ宝船となるからくりで、人形師竹田の一世の傑作と称された。
 『尾陽村々祭礼集』は江戸中頃の祭りを知るに貴重な資料である。だが、当時のからくり人形がすべて保存されていないことは、からくり人形にも流行があり、衰退があった。動きの散漫な古い人形は省みられなくなり、代わって人々をあっといわせる尾張独特の山車からくりが続々と登場するのである。からくり人形にとって黄金時代を迎えることになる。

■大野のからくり 

 江戸初期において知多半島の中心は大野であった。大野城主佐治氏が知多水軍を率いて海運による交易で繁栄していった。織田信長の妹と姪(後の徳川秀忠の妻)が佐治氏に嫁いだことでも、信長が知多水軍の輸送力を重要視していたことがしれる。後に半田などに大野の酒造家や味噌醸造家が株を売り渡したために中心が移るのだが、それは江戸中頃のこと。
 『尾陽村々祭礼集』の山車や人形は明確でないが、大野町の高須賀の唐子車は寛保元年(1741)八月に建造された。当時の覚書に「金一両一分人形と装束高欄ぬり代」とある。この人形は後の記録により唐子であることがわかる。『尾陽村々祭礼集』の糸からくりはこれかもしれない。
 さらに天明4年(1784)8月に大修繕する。この時の記録に「金九両二分唐子人形二ツ代金二分名古屋藤吉へ謝禮人形作人」とあり、始めて人形作者の名が記録に記される。これにより竹田藤吉により新しいからくり人形が制作されたことがわかった。現在のからくり人形である。からくり人形の最高傑作と評価された名古屋若宮祭り玉屋町西王母車の離れからくり(竹田寿三郎作)を真似たとの伝えを残す。
 十王町の梅栄車は天明5年(1785)から6年かけて新造され、さらに嘉永6年(1853)に造り直された。この時の総費用が575両余という莫大な金額が投じられた。そのうち人形分については「一金五十九両ト一匁一分六人形類(御人形ハ名切町石橋屋仁兵衛」とある。この人形に関しては胴部に墨書があり、石橋屋仁兵衛は隅田仁兵衛であることが判明している。詳しくは隅田仁兵衛のところで記す。
 橋詰の紅葉車については文久3年(1863)に制作されたと伝わるが、古文書が消失したため逆立ちした唐子が鉦を叩く人形の作者はわかっていない。それ以前の山車は西ノ口に売却している。大野では町内が競いあって山車やからくり人形を作ったといわれている。
 大野の隣の小倉村にある小倉天神社はデク嫌いの神さまとの伝説がある。ある年のこと、山車にデク(人形)を乗せ町内を曳き回したところ、その年は大雨が降って甚大な被害を被った。これはきっと氏神様はデクが嫌いに違いないと、それ以来山車には人形を乗せなくなったという。この伝説を裏返せば、以前は小倉村でもからくり人形を乗せた山車が曳き回されていたことを証明している。それがどんな人形であったかは定かでない。別に大野の町内のように華麗な山車やからくり人形がないことへの、言い訳のような伝説かもしれない。
 大野については、江戸時代に和時計の生産地であったことは以外に知られていない。天保頃(1830〜43)大野の市場出身の井上恵春が長崎で時計技術を学び、大野で時計細工を始めた。弟子も数多く竹内常吉、井上安蔵、小牧清七、竹内源兵衛、竹内仙吉、竹内和兵衛、竹内興吉、杉浦次郎吉、加藤音八、畑中一造等がいる。名古屋の時計師の先祖が大野の時計師のお弟子であったとは、大野に語り継がれてきた話である。京都、大阪より注文があり、また時計の直し物は、名古屋でも修理できない物は大野へ送られたという。明治維新になって外国人が多く入国したが、大野時計の精巧さに驚き、買い集めて骨董品として逆に輸出されたという。
 名古屋のからくり人形が尾張藩時計師津田助左衛門の影響をうけたことは前述したが、大野の時計師井上恵春やその弟子達と知多地方のからくり人形の関係を裏付ける資料は発見されていない。

 
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