十七年ぶりの母子対面

天下に号令せんと上洛する今川義元率いる大軍が尾張の国に怒濤のごとく押し寄せた。先鋒の松平元康(家康)は大高城へ兵糧入れを命じられる。尾張領内に進出した元康は、僅かな供を従え大高城より三里半(約15キロ)南にある坂部城に母を訪ねるべく馬を駆った。永禄三年(1560)五月十七日、元康十九歳の時であった。

知多半島の中央を一筋の川が南北に流れる。川の両岸に丘陵が濃緑の森に覆われつづいていた。この阿久比谷を東に望む小高い丘の上に坂部城はあった。川堤より城を眺める元康の胸は、待ち焦がれた恋人にでも会うようにときめいていた。

徳川家康は三歳にして母と離別。六歳で今川の人質として駿府に送られる途中、三河田原城の戸田康光に襲われ、敵対する織田の人質として護送された。八歳の時に父の広忠が家臣に暗殺され、今川の人質となっていた織田信広と交換で岡崎に帰る。岡崎城内に落着く間もなく再び駿府での人質生活。やっと元服して岡崎城に戻れた時には十七歳になっていた。まさに艱難辛苦の毎日であつた。幼き家康を陰で支えたのは母お大の愛であった。

天文十六年、わが子竹千代が人質として熱田に幽閉されていると知ったお大は、家臣の平野久歳と竹内又六を熱田に遺わし、密かに衣服や食糧を送り届けた。中に 「どんなに辛くとも耐えてがんばりなさい。いつかは母と会える日もまいりましょう。母はいつでもそなた様の無事を祈っております」としたためたお大の文が母手折りの紙人形とともに添えられていた。この紙人形は幼い竹千代にとって母の身代りであった。いついかなる時も肌身離さずにいた。

お大は自らの指先を傷つけ、滴る血と豆汁で阿弥陀経を写経し我が子の武運長久を祈った。

坂部城といっても砦に近い小さな城であった。胸に秘めた母身代りの紙人形をきつく押さえ、熱く込みあげる想いを抑えるように大声で名乗った。

報せを聞いたお大は急いで駆けつけた。

奥の居間で夢にまで見た母と対面する。

「母上……」

お互い両の手を固く強く握りしめた。熱く柔かな手、これが母の手か。元康は絶句して言葉がつづかない。涙だけがとめどもなく流れ落ちた。

「待ちましたぞ。この日を待ちましたぞ」

お大は逞しく成長した若武者姿の元服を眩しそうに見上げては何度も呟いた。

お大は坂部城の久松俊勝に再縁し男三人女二人の子に恵まれていた。母の横に隠れるように身を寄せはにかむ子らに元康は微笑んだ。

「そちらは、私の弟になるのか。これからは兄弟力になってくだされ。」

肉親の愛情薄い元康は生まれたばかりの赤児を抱きかかえおどけた。

あれも語りたい、これも聞きたいと、思いばかりが募り、口に出る言葉も少ない。十七年という時を経て会う親子に言葉はいらなかった。ただこうして母と一緒にいるだけでよい。それだけでこの僅かな一時のかけがえのない幸せを沁々味わった。母に会いたい一心が今日までの苦難に耐えることができたのだ。

元康が坂部城を訪ねたのは母に再開することのほかに、大高城に搬入する兵糧米の調達、それを運搬する人夫の確保といった目的があった。お大の夫の久松俊勝は織田と今川の狭間で揺れていた。誰がみても織田に勝利はないとみた。俊勝も元康の頼みを快く快諾した。

松平元康率いる岡崎軍は大高城を囲む織田軍の裏をかくように、丸根砦と鷲津砦を攻めた。寄手は慌てて両砦に兵を分散し援軍を向ける。その間隙を突き南方より、坂部の民衆が荷駄で運搬した兵糧を運びい入れた。無傷で大高城入場に成功したのだ。

翌日今川義元の本隊が尾張領内に進軍した。午後より激しい豪雨となる。雨中を織田信長は桶狭間に急襲し義元を討つ。大高城に義元斃れるの方が届いた時は夕方になっていた。このまま城内に篭もれば孤立状態となる。城を出ても織田方の落人狩りにあい岡崎軍は壊滅する。思案する元康の許に「城を脱出し知多より三河に渡られよ」との伝言を携えたお大の使者が訪れた。

織田軍が包囲する大高城を突破した岡崎軍は一路知多半島を南へと下る。しだいに闇に染まりつつある道筋に提灯の灯りが揺れて浮かぶ。お大の手配した道案内人である。坂部城に到着し無事を喜ぶ。瞬時の休息の後、再び闇の中を南へと下る。途中、悪路には道普請、小川には仮の橋が架けられていた。母の心配りには感謝するばかり。成岩浜より舟で三河大浜に渡り、翌日に岡崎城に入ることができた。

我が子の為ならどんなことも厭わないお大は、織田と松平が敵対することは元康の為ならずと、清洲城に出向き織田信長に和を結ぶべく直訴した。気の強い女子よと半ば呆れた信長は、母親の愛薄い我が身に比べ、元康が羨ましく思った。

信長と家康の同盟は、信長が本能寺で斃れるまで長きに至った。下克上の戦国乱世では希有なことであった。

文・本美信聿(郷土史研究家)



徳川家康が生母お大と涙の対面した坂部城跡は名鉄河和線坂部駅の西南の丘上にある。現在は城山公園と阿久比町図書館になっている。

城跡の北にある久松家菩提寺の洞雲院に、お大の遺髪墓、血で書いた阿弥陀経、重箱化粧筥などの遺品が残る。お大が再縁の女性の幸せを願ってはじめた「おせんぼ」法会が毎年三月十六日に行なわれている。

家康が大高城を脱出して知多半島を経て三河に逃れた時、岩滑村(半田市)の村人が矢勝川に仮の橋を架けて渡した。後にこの橋は権現公縁の橋ということで尾張藩が橋の修理一切を賄ったという。