初春の知多路老いてしたたか

徳川家康は征夷大将軍を秀忠に譲ると江戸城を退き駿河城に隠居した。とはいえ家康が実権を握っていることは厳然たる事実である。ライバルの秀吉が没して十年が経つ。秀吉の今際の最期に遺児秀頼の行末案じての老毫を晒した醜態をみた。人の世の非情さよ。自らの眼の黒いうちに江戸冪府を磐石なものとしたい。唯一の憂いは豊臣恩顧の大名が秀頼を担いで叛旗を翻すことであった。大坂方の備えとして尾張に堅牢な城を築く。思いこむと行動ははやい。駿府を発ったのが慶長十四年(1609)正月早々、家康六十八歳の時であった。

清洲城は低地にあり尾張の首府たる大城郭として不適である。幾多の候補地を家康自らの足で踏歩調査しだ結果、那古野台地の丘上にあった那古野城跡を新しい城と決めた。城普請から現在の名古屋市の礎となった広大な城下町構想をこと細かに城代家老の山下氏勝に指示する。

今回の旅には尾張国守となっていた九男義直と十男頼宣(後の紀州候)が随行していた。老いて生まれた子だけに可愛くてならない。目的を終え殊の外気分よい家康は、子供らを楽しませるために千賀志摩守の居る師崎に立ち寄ることを思い立った。

熱田より海路を船で発つ。初春とはいえ鈴鹿の峰より吹きおろす烈風に船の帆は煽られひとまず大野湊に寄港した。大野の土を踏むのは久しい。信長が本能寺で弑逆されて以来三十年の歳月が流れていた。

湊に出迎えた東浦十二ケ村の代官である平野彦右衛門の屋敷で休息する。

家康はふと庭に眼をやると、いかにも古木といった風情の庭樹が枝葉を拡げていた。

「これは見事なものじゃ」

「拍槙(びゃくしん)と申しまして、その昔、大野の地頭が鎌倉から持帰り植えたものと伝えられております。かれこれ三百年の年月を経たものにてございます」

家康の感嘆の声に、平伏した彦右衛門は畏まって説明する。

平野屋敷は江川沿いにあった。その前の半僧坊に鷹狩り用の鳩部屋があり、義直らはそちらの方に興味をもつ。家康は何より鷹狩りを楽しみとしていた。早速近隣の村より寄人を集め鷹狩りが催された。後に大野鳩部屋の鳩一匹の飼育につき、褒美銀四分づつが給わる。

再び一行は海路伊勢湾を下るが富具崎で風向きが悪く野間に上陸した。知多半島を人の足に例えると踵の部分が富具崎にあたる。ここで風の流れが変わり暗礁も多いことから遭難する船が多い難所でもある。

野間より陸路を南下した。野間で集められた牛の背に女中衆が乗る。家康にも近習から牛に乗ることをすすめられたが、「信長殿が明智に討たれた折、堺より三河まで、まる2日間寝ずに走りつづけたものじゃ。年老いたといえども、まだまだそちらに負けんわ」

孫のような義直、頼宣に負けん気をみせる家康は、人も怖れる権現様の姿はない。どこにでもいる子供心を留めた好々爺の家康であった。

初春の山路は梅の花が満開。踏み跡も疎らな小径に、牛の背に乗った女中は激しく揺れた。そのたびに嬌声をあげ大騒ぎ。華やいだ若い女の声と梅の薫りが谷間に流れる穏やかな春の一日。合戦に明け暮れた家康にとって忘れ難い楽しい一瞬であった。

師崎に到着した頃には日も暮れかけていた。羽豆岬の彼方に落陽が積雲を染め沈まんとしていた。あまりの神々しさに思わず家康は手を合わせ拝んでいた。

千賀屋敷の門前は浜になっていた。朝早く起きた義直と頼宣は浜辺を駆け、打ち寄せる波と戯れていた。昨夜仕掛けた地引き網が村人総出で引きあげられた。網の中は大小の魚がピチピチと跳ねている。義直は  眼敏く網の中に異様な動物を見付けた。

「それは海亀でございまする」

千賀志摩守は一匹の海亀を選び義直に手渡す。恐る恐る甲羅を持ち抱える。手足をバタつかけた格好がいかにも面白く笑いこけた。頼宣は肩に海亀を乗せてもらう。二人ははしゃぎながら海亀を肩に担いで浜を駆けまわる。

その様子を満足気に眺めていた家康の胸中に、戦国武将としての血が煮ぎる。名古屋城の城普請は秀頼に心を寄せる大名に命じ財力を削ぐ。跡は秀頼を徳川家の臣下として天下に認めさせるかだ。それに逆らえば討つまでよ。天下制覇への遠い道、まだまだひと働きせなばならんわい。

老いてなお強かな家康本来の顔にもどり北叟笑んでいた。

文・本美信聿(郷土史研究家)



平野屋敷は大野行殿として家康の他にも歴代尾張藩主宿泊所となった。家康が称讃した平野屋敷のピャクシン(イプキ)の古木は樹齢670年の現在も枯れることなく樹勢を保ち、県の天然記念物に指定されている。屋敷跡地には他にイプキ、イチョウの古木も残る千賀屋敷は、羽豆崎城を打ち壊した古材で師埼村内に築かれた。明治になって養鯨学校となる。知多の漁師は捕鯨技術に優れ、師崎の浜には鯨骨が転がり、まるで朽木のようであったと江戸時代の記録にある。千賀屋敷跡には「千賀家之碑」が建つ。

千賀家之碑