篠島城

多感な少年期を過した善良親王

念願の鎌倉幕府を倒し王政復古を実現した後醍醐天皇は、足利尊氏の野望に敗れ吉野へ落ちた。楠木正成、北畠顕家、新田義貞ら主だった武将を相次いで失い、後醍醐天皇の南朝は次第に勢力を弱体化していった。諸国に皇子を派遣し足利氏に不満を抱く武十団を結集、一斉蜂起を計る。

二十歳の北畠顕信を鎮守府将軍に任じ、十歳の義良親王を奉じて、東国派遣を命じる。奥州で兵力をまとめ東国を制覇、京ヘ攻め上る策であった。天皇は時代を担う若き力に期待したのである。

伊勢の大湊より五百余艘の大船団が東国へ向け出航した。延元三年(1338)八月十七日のことである。大海へ威風堂々と繰りだした大船団は前途洋々たるものがあった。ところが遠州灘を過ぎたあたりから俄に風向きがかわり天候が異変した。台風に遭遇したのである。伊豆を前に暴風雨で荒れ狂う波濤に翻赤され、船団は沈没、破損し各地へ漂流していった。義良親王と顕信が乗る御座船は東風に吹き戻され、伊勢湾口にポツンと浮かぶ篠島の伊勢ケ浜に漂着した。

当時の篠島は伊勢に属し、古くより伊勢神宮と関係が深く、島民も神の民人として誇りに思っていた。思わぬ親王一行の漂着に驚いた島長の辻彦太夫は急遽、神官の辻三太夫の屋敷を清め仮の行在所としてお迎えした。

古代より伊勢湾口の海部族を支配した篠島王は島群の中心である篠島の東山に居宅を築いた。ここから伊勢の海原の彼方に、知多、渥美、三河、伊勢の山々が一望のもとに眺められた。その後、源平時代に室賀秋季がこの地に城を築く。秋季は源頼朝が伊豆で挙兵したときに水軍を率いて馳せ参じた。

親王が島に滞在したときには篠島城は荒廃して傷んでいたが急いで修繕し親王の行在所とした。

離島に水は貴重な宝物のようなものだ。篠島の数少ない井戸も塩分を含むものであった。雨水を溜め飲料水としていた。皇子様に差し上げるには憚れると、辻彦太夫は湧水を求めて島内をくまなく探したところ、人里離れた谷間に僅かながら清水が滴っていた。その周辺を穿つと、すぐに岩盤に突きあたり岩間より清水が滾々と湧き出してきた。一掬いロに含むと、慣れた塩辛い水ではない。このうえなく甘露な水である。

「ああ、ありがたいことだ。これも皇子様が島に来られたお陰。末長く島の宝としたい」

彦太夫は湧きあがる清水を何度も手で掬つた。

知多牛島の先端にある羽豆崎城を守るは南朝方の熱田大宮司の千秋氏であった。北畠顕信は千秋氏を通じて、義良親王の身を案じ悲嘆にくれている後醍醐天皇に無事を伝える使者を幾度となく発したが、なかなか返事が届かない。焦燥の日々が続き、篠島に滞在すること半年の余が過ぎた。波にのって漂う潮風に春の気配が感じられる季節になっていた。

そんなある目、沖合に大きく帆を張った船がゆっくりと近づいてくるのが望めた。親王と顕信は行在所より島の湊へ一息に駆けおりていつた。日野頼意が勅使として到着したのである。出迎えの中に義良親王の姿を見つけた頼意は、船着場に船が着くのが待ちきれず、我を忘れて浜に入ると水飛沫をあげて駆け出していた。親王らの奇跡的な生還は伊勢の大神のおはからいと喜んだ。

神風や御船寄すらん沖つ波

たのみをかけし伊勢の浜辺に

と一首を詠んで親玉に奉じた。

「島の人々の心遣い生涯忘れはせぬぞ」

親王は何度も礼をいい迎えの船に乗り込んだ。篠島に漂着した頃は弱々しい少年であったが、今の親王は潮風に焼けた顔も逞しく大人の片鱗をのぞかせていた。日野頼意も頼もしげに見つめる。島の湊へは老いも若くも島民こぞって見送りにでた。船が湊を出立すると島の漁舟、手漕舟が総出で沖あい遠くまで親王を護るように従った。遥か遠くなった篠島を望むと、行在所のあった篠島城が山の頂きに眺める。親工の胸に懐かしさがこみあげてきた。忘れることのない光景であった。

吉野で親玉を迎えた後醍醐天皇は、しばらく見ぬ間に痩せ衰え老いていた。無事の再開を喜ぶまもなく、その五ヵ月後に天皇は崩じる。死の前日に、義良親王に天皇位を譲り後村上天皇として践祚された。

後村上天皇は父の遺志を継いで、京の都を奪回すべく再三にわたって攻め奇せるが悲願叶わず、不遇のうちに住吉(大阪)の行宮で四十二歳の生涯を終えた。

後村上天皇は生をうけた時から死ぬまで政変と戦さの渦中にあって、数度にわたって生死の境に御身をさらす波瀾万丈の生涯であった。篠島に滞在した7ヶ月が争いもなく、もっとも心安らぐ時であった。吉野の山中にいても、時々耳元に、打ち寄せては返す潮騒が蘇る。どこからか磯の香りが漂ってきそうで、懐かしさに、多感な少年期を過ごした篠島での日々を憶いだし涙が零れそうになった。

文 本美信聿 (郷土史研究家)



篠島城の跡は、篠島小学校の裏山の東山(標高40m)頂きにある。城山と呼ぶ。城跡に後村上天皇と篠島の由来を記した「篠島聖跡」の石碑が大正四年に愛知県によって建立された。隣接して城山水神社が祀られている。

義良親王のために掘られた井戸は「帝ノ井」として島で唯一の飲料水として利用された。愛知用水が島に通水した今も、昔とかわらぬ清水が湧き出ている。

御座船が漂着した伊勢ケ浜は、日野頼意の歌に因み神風ヶ浜と呼ばれた。夏ともなれば神風ヶ浜海水浴場として、篠島を訪れた観光客で賑わいをみせる。