坂部城

信俊、無念の自刃

秋枯色に染まる坂部城(阿久比町)の遥か南の街道筋を、朝靄を押分けるようにして念仏を唱和しつつ進む数百名の集団がいた。

門徒衆が集結する不遜の動きありとの急報に、城よ久松信俊は即座に起き上がり駆けつけた。

「これはお殿さま。ご迷惑をかけまいと密かに出立するつもりでしたが……」

一行の中より指導者らしき憎侶が進み出た。

「おお、光西寺の教圓和尚ではないか。これはいったい何としたことか」

宮津村の教圓が語るには。摂津(大阪)の石山本願寺に立籠もった門徒衆もはや六年の歳月が流れた。食糧も残り少なく、本願寺法主光佐(顕如)様より全国の門徒に危桟を訴え信長と戦えとの檄文がとんだ。知多では大野光明寺の浄宥殿を中心に亀崎浄顕寺の林正殿らと語らって、我々も加勢に出かけることとなった。幸い今年は豊作で、兵糧米を大野港より運ぶところである。

一行の中には信俊の見知った顔もある。稗之宮村聞行寺や大古根村蓮慶寺の和尚もいた。

「御身を大切に、くれぐれも無事でな」

信俊は本願寺に敵対する織田の家臣。彼らを積極的に支援することもできず、労いの言葉をかけ見送るのみ。天正四年(1576)秋のことであった。このことが大きな陥穽となって、後の悲劇に繋がろうとは、この時には思いもしなかった。

室町の初め、九州の筑紫合戦で戦功あった道定は足利義満より先祖縁の阿古居庄の地を賜るべく願い出て許される。道定の先祖は菅原道真の孫雅規であった。稚規は阿久比谷十三ヵ村の地頭として善政を敷いた。その死後も村人は慕い地頭夫婦の木像を刻み厨子に安置した。生前村々を廻ったように厨子を担いで村を巡回して廻った。

道定は雅規の童名久松麿に因み久松姓に改める。道定十世の孫宝義の時に粟ノ木谷に坂部城を 築く。その子の俊時に大高城(名古屋市)の水野大繕の女が嫁ぎ信俊が生まれた。

天文十五年(1546)に水野信元の妹のお大が俊勝の後方として坂部城に入る。

弥九郎(信俊)にとって、継母のお大は実の子のように気を配り優しくはしてくれたが、相許さない大きな壁があった。五歳を過ぎたばかりの幼い胸には亡き母の思い出がしっかり刻み込まれていたのだ。岡崎でお大が生んだ竹千代が人質として熱田に幽閉されると、直ちに家臣の平野久蔵、竹内又六を遣わし何とか世話をみる。またお大は”竹千代殿は後々出世されるお方よ”と人と会う度誉め讃える。その度に弥九郎の胸は痛んだ。同じ年頃の竹手代と自分が比較されているようで堪らなかった。妬みかもしれない。

久松の家臣も水野色に塗り換えられていった。俊勝の弟定重も居たたまれなかったのか、諸国武者修行に出ると坂部城を出奔している。

弥九郎が元服して信俊と名乗ると、大野より佐治対馬守の女が嫁いできた。父の俊勝も、岡崎城に復帰した竹千代(徳川家康)に従い留守がちとなる。永録五年(1562)に俊勝は坂部城を信俊に譲り、お大と信俊の異母弟妹三男五女を伴い岡崎城に入る。

信俊にとって重荷が取り除かれたようで、この後の十余年が子宝にも恵まれ、夢のような幸せな日々であった。この間、家康は戦国武将として目覚ましい活躍をしている。だが信俊は羨ましくも思わなかった。片田舎で長閑に暮らすのが姓に合っていた。

天正三年(1575)三河の池鯉鮒(知立市)で水野信元が武田方と通じたとの讒言により謀殺された。水野一族は所領を没収され離散の浮目に遭う。久し振りに坂部城を訪れた俊勝は憤りで顔面を朱に染めた。あの温厚な父が激して怒るとは余程のことだ。俊勝の招きにより池鯉鮒を訪れた信元はその席で惨殺されたのだ。

「佐久間めに欺かれた。ヤツは腹黒い男だ。何かにつけて警戒を怠るな」

水野に代わり佐久間信盛の配下となった信俊を気づかって、帰り際に信勝は諭すように言った。

天正五年、坂部城の久松信俊の許に石山本願寺攻め参加の伝達が届く。一瞬、信俊の脳裏に昨年見送った教圓和尚の顔が過った。気の進まぬことだがこれも戦国武将の宿命と諦め坂部城を立った。

七月も半ば過ぎ、連日の暑さつづきに城山の蝉の鳴声が鬱陶しい。そこに早馬が駆け込んできた。

「信俊様がご自害なされました!」

使者の息を切らした悲痛な絶叫は城内を仰天の極地に陥れた。石山本願寺攻めに手こずり苛立った佐久間信盛が信俊に、門徒衆と内通しているとあらぬ疑いをかけた。自らの潔白を明かすべく無念にも自刃して果てたのだという。

城内で善後策を評議する間もなく佐久間の手勢が城を接収すべく押し寄せてきた。奥方の守役として武家屋敷の一角に居していた佐冶助左衛門が城内に駆け込んだ時には火箭が宙を走り、あちこちで火の手があがった。怒号と悲鳴の混乱する中で、散り散りとなった幼子を捜し求める奥方を見つける。奥方が懐に抱いた生まれてまもない赤児を側にあった飯櫃に入れ乳母に背負わせ、自らは奥方を背負う。佐治家の家財で周囲を固め、城の西の山へと脱出した。

信俊の子、小金丸と吉安丸は捕えられ酷くも惨殺された。まだ七歳と五歳の幼子であった。

薄汚れた憎衣を纏った老人が草繁る城山に佇む。飯櫃の中で無事助かった赤児のなれの果てである。吉兵衛信平という。暫く名古屋城下の牟三殿杁に住んだが、世の無情を僻み、亡き父兄の菩提を弔うべく剃髪して諸国を巡る。賢意入道と祢す。父と同じ異母兄弟が権現様の兄弟として全国各地で大名に出世したのに比して、我らの悲運を嘆き悲しむか、合掌する後姿に嗚咽がいつまでも漏れた。

文 本美信聿(郷土史研究家)



坂部城は英比城、阿古居城ともいう。栗ノ木谷に築かれ、東西四十間、南北五十間あった。坂部城落城後廃棄されたが、久松俊勝の孫桑名藩主松平定綱が城跡を尾張藩主義直公より譲受け、二町余に松千本、杉千本、桧三百本を植樹した。現在城山は公園となり参道に城山三十三観音巡りの石仏が並ぶ。また、落城に際して姥がひそんだという姥ケ谷や黄金を隠したとの伝説も伝わる。

城跡に隣接する久松家の菩提寺洞雲院の墓地に久松一族の墓が並ぶ。信俊、小金、吉安の墓は 本堂裏手の墓地の片隅に、いかにも見すぼらしく小さな五輪塔がひっそりとあったが、近年新しい墓が建立された。

信俊の異母兄弟は家康の兄弟ということで松平姓を賜り伊予松山藩、伊勢桑名藩はじめ諸国の大名となる。寛政の改革で有名な松平定信はその裔である。