緒川城

お富の方の非運の一生。

その日、緒川城の周辺は喜びで湧いていた。

「それ祝えや皆の衆!」

にわかに築かれた櫓の上で、得意満面に笑みを浮かべ叫ぶ武将は、緒川城の城主水野忠政であった。その横で羞らうように寄り添い、美しく着飾った娘は、この日に水野家に嫁いできたお富の方である。

忠政の合図に太鼓がドドッと打ち鳴らされ、祝の餅や酒が振る舞われると、群衆の中からドッと歓声があがった。

「お館さまの新しい嫁は三河一の美しい女子だというではないか」

「そげな美女なら、この世の見納めにちょつくら拝みたいものだのう」

噂の新妻を一目見たいものだと村人は櫓の前に群がった。

戦さも忘れ、平和で長閑な田植え前の春のひとときを、武士も村人も祝い酒に酔いしれ、唄い踊った。

水野氏は本来、小川氏と称した尾張源氏の流れを汲む。この地方の地頭として長年支配してきた。南北時代の動乱に南朝方として奮戦したが、足利勢に敗れ一族は離散の憂き目にあった。

それより百年の後、全国を放浪していた小川氏の末裔の貞守が祖先の旧領、小川の地を回復し、小川村の未申(西南)の丘の台地に城を築く。ここは日本武尊の東征に従い功績のあった穂績忍山宿弥の墓と伝う古墳があり、それを壊して城を築いたものである。貞守は東尾張の水野の地にしばらく滞在し、姓を水野と改めていた。

貞守の以後、賢正、清忠と継がれ忠政の代となったのである。その間に城も警備され、本丸を中心に幾重にも堀を周らせ、端城、二の丸、三の丸が別に設けられた。また城の周辺の西には貞守の居館、その北に谷を挟んで御上屋敷、城の南には政所が置かれた。小川も緒川と改められた。

水野貞守は小川の地のほかに西三河刈谷に城を築いていた。忠政の頃には衣ケ浦の航海権を完全に握って、その力を近隣に誇示した。

忠政は岡崎の松平信貞の女を嫁に迎え、信元忠貞、お上をもうけた。岡崎城が松平清康に攻められ、信貞は娘を清康に嫁がせ退く。

忠政は信貞の脅威がなくなったため、信貞の娘を離縁して、新たに寺津城(西尾市)の大河内元綱の娘お富を嫁に迎えた。戦国の世のならい政略結婚である。お富は実は尾張の青木一宗の娘であったが大河内元綱の養女となったものである。

お富の方は城の西にある御上屋敷に居住した。そのため屋敷は俗に青木屋敷と呼ばれた。平和な緒川の地で忠政とともに睦ましく人も羨むほどの仲で、お大、忠守、忠近、忠分、忠重と子宝にも恵まれた。

御上屋敷より東を望むと、緒川の里から衣ケ浦の海原、三河の山々までが一望のもとに眺め られた。先妻の子、信元はすでに青年武将として父に従い城内にいる。先妻の子のお上と我が子たちに囲まれ、こうして穏やかに暮らしていると、しばしの幸せに時を忘れてしまいそうであった。

「母様、あれを見て」

お大が突然遊びをやめて声をあげた。

遠く北より師崎街道を、騎馬の一団が白い埃りをあげ緒川城目指して疾走してくる。統率のとれた騎馬ぶりはいかにも見事なものであった。

城内の忠政より「三河の次郎三郎殿が来られた。歓待の準備をいたせ」との知らせがはいった。

次郎三郎とは、岡崎城の松平清康のことで、若くして家督を継ぐと、東三河を従え、さらに西ヘ北へと三河全土を破竹の勢いで攻め入り、尾張まで兵を出す勢いであった。末は天下をとる武将と畏れられていた。

夫の忠政はすぐさま清康に「これがわしの内儀じゃ」と自慢げに紹介した。

「ほう、このお方が噂に高いお富さまか」

清康は眩しげにお富の方を見て、少年のように頬を紅めた。お富は近隣近郷に畏怖された清康が意外に若いのに驚いた。また自分を視つめる清康の一途な熱い視線にたじたじとなった。

それから暫くして、緒川城の忠政に「お富の方を見初めた。譲ってくれ」と岡崎から使いがきた。意外な申し出に忠政は困り果ててしまった。これを断ればいつ攻め寄られるかわらない。兵力からして一溜まりもないであろう。悩んだ末、お富を離縁したことにして、ひとまず寺津の実家に返し、ほとぼりも覚めた頃に再び緒川に戻そうと考えた。

お富は泣く泣く我が子のお大だけを伴い緒川の城を出た。実家の大河内家にも執拗にお富の方を寄越せと威しがある。困った末、叔父の宮家に匿われたところを無理に強奪され清康の室となる。

それから三年の後、天文四年(1535)、清康は尾張の守山に攻め込んだが家臣に討たれ死ぬ。お大は緒川に戻ったが、お富はそのまま岡崎に残り先妻の子の広忠を助け岡崎を守った。

お富は天文七年にお大の名で、水野家の菩提寺、緒川の乾坤院に寺領を寄進。さらにお大が天分十年に岡崎に広忠の妻として嫁いでくる仲介をとった。お大が忠政の死にともなって、松平と水野が敵対したため離縁させれられた時、幼子の竹千代(後の徳川家康)の面倒をお大に代わり世話した。竹千代が駿河へ人質となった時にも、ひそかに駿河に出向き、人質生活の少年竹千代を陰で助け学問を教え育てた。

お富の方は清康に死なれた後も、その美貌ゆえに望まれて四度も嫁いでいるが、いずれも夫に死なれる悲運に泣いている。

数奇な運命を辿ったお富の方も、晩年は源応尼と称し駿河で竹千代の行く末を案じつつ過ごした。永禄三年(一五六〇)五月六日亡くなる。七十歳余であったという。奇しくもこの年竹千代が桶狭間合戦で今川義元が討たれたため、岡崎で自立 した年でもあった。家康は源応尼の恩を忘れず、終焉の地に華陽院を建立し、参勤交代の大名 には、この寺の門前では必ず籠をおり拝礼させた。

緒川城には、徳川家康の母お大とともに、その母お富の非運な女の一生が秘められている。

文 本美信聿(郷土史研究家)



緒川城跡は昔より古城(ふじろ)と呼ばれた。現在は家並みに囲まれた中、僅かに雑木が茂る小山をのこすのみ。「緒川城跡」「伝通院於大出生地」の石碑が建つ。

水野家の菩提寺の乾坤院は城の鬼門除として乾坤の方角に創建されたものである。水野一族の墓と位牌や遺品が保存されている。総門は緒川城の唯一の遺構で刀傷らしい痕跡も見られる。また墓地の西南の方角に華陽院(お富の方)の墓という五輪塔がある。

お富の方が居住した青木屋敷(御上屋敷)は青木の地名のみを残す。また東浦町の緒川には城や水野氏にまつわる史跡がいたるところにみられる。