成岩城

わしらには御仏の加護がある

水野忠政の死後、緒川・刈谷城を継いだ信元(当時は忠次)は、知多全域を支配せんと野望に燃えた。先年まで敵であった織田信秀と同盟を結ぶと、新海氏の居る宮津城(阿久比町)を襲い一揉みに押し潰す。水野軍はさらに勢力を増し、怒濤のごとく神戸川北の八幡社(現成岩神社)に集結した。天文十二年(一五四三)種子島に鉄砲伝来した年のことである。

成岩城(半田市有楽町七丁目周辺)は東西三十五間(63m)、南北二百三十間(418m)の細長く広大な丘上にあった。北は海水湾入の入江から神戸川となる。西は紺屋ヶ淵とよばれる堀がつづいた。東は城下が海岸線となり、要害の堅城であった。城の周辺は稲田がひろがり、農繁期には城主の榎本了圓が先頭にたって刈入れに働いた。城兵といえども大半は農事に携わっていたのだ。

了圓は大野宮山(常滑市)の一遍上人を開祖とする念仏宗(時宗)金蓮寺の衆徒(僧)であった。一山十二坊を擁した寺域に榎の大木が聳えていた。俗に榎山寺という。了圓の姓名もこれに因むという。一色氏が衰え、代官の佐治氏が宮山に城を築くと時を同じくして、了圓は金蓮寺を出奔し成岩に移ったという。里人に念仏を拡める目的が、いつしか成岩城の城主となっていた。それだけ村人に慕われ頼りにされていたものと思われる。

城内より北方を望むと、八幡社の森は永楽銭の旗指物で埋尽くされ、威嚇するようにはためいていた。了圓は困惑した。降伏し城を開け渡すのは易い。また、長尾城(武豊町)の岩田氏の援軍を待ち龍城をつづけたものか躊躇していた。「了圓さま、水野勢は老若男女かまわず軍夫として連行しておるそうな。わしらがことを、たかが水呑み百姓の烏合の集まりどもだ、一飲みにしてくれんと豪語しとるといいます」

偵察に出した家臣の情報に、わしたちは貧しいながらも幸せに暮らしている、理不尽な力で平和な村里が踏み荒らされてたまるものか−−了圓は憤激し顔を朱に染めた。

「わしらが意地を見せてやろう。我々には御仏の御加護がある。現世の地獄にいきるより、ともに死んで極楽浄土へ行こうではないか」

場内にワァーッという大歓声が湧いた。

兵力軍備とも庄倒している水野軍は、よもや成岩城を出て戦いを挑むこともないと侮っていただけ不意を突かれた。だが、飛んで火に入る夏の虫と、全軍砦を打ち出る。神戸川を挟んでの合戦は壮烈を極めた。「南無阿弥陀仏」と唱和しつつ突き進む榎本勢は死をも恐れぬだけに果敢に戦った。だが、いかんせん鎧甲に身を固めた水野兵の前に、傷つき倒れる死者は増えるばかり。両軍互角の戦いのうちに城砦に引き上げる。

西の空が茜色に彩りはしめた頃、神戸川は死屍者が累々と重なり、流れを血で染めた。傷ついた戦士が呻き泥中を這う。親兄弟を求めて泣き叫ぶ女、子供で阿鼻叫喚の地獄と化した。

成岩城より、この光景を茫然と眺めていた了圓は、わしが村の衆を殺しだのだ、と悔いた。 この日のことは終生忘れることはないと胸に痛く刻みこんだ。「了圓さま」と数十人の若者が了圓の周リを輪になり集まった。

「おお孫六か。兵助に六左………」

「わしらは水野に連れていかれとったが、やっと脱けだしただわ。成岩の者みな了圓さまの昧方だでのお」

孫六は、あの快活で明るかった了圓が、別人のように誉れ果てた顔を見ると悲しかった。束ねた竹をドッサりと置いた。

「ほれ、あの長薮の矢竹だわ。こんで水野を懲らしめてやろまい」

了圓は毎朝、馬場から村の北はずれにある粕江までの海浜を乗馬するのが日課であった。粕江に、 この地方には珍しい、幹が細くて強い節の長い竹を植えたことを思い出した。この矢竹で弓を射返すのだ。

「了圓さま、そげに力をおとさんと、盆踊り歌でも唄ってくれやな」と剽軽な兵助が言う。

日照り続きで農作物のすべてが枯れた年があった。盆供養になっても、どの顔も沈みがちであった。そこで了圓は先頭にたって「さあ踊れやナムアミダボ、ナームアミダ。辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、みな忘れて、さあ踊れや」と囃子ながら、身振り手振りおかしく踊りはじめた。人々もつられて踊るうちに、苦しさを忘れたことがあった。了圓がそこにいるだけで、村は明るくなったものだ。

その後、水野勢は幾度となく成岩城を攻めこんだが、城内兵の果敢な働きで押し返す。城内より流れる念仏踊り唄の唱和に、寄手の兵も気味悪く、攻める気をそがれた。

勇将でなった水野信元は、農民に姿を変えた間者を密かに城に忍びこませ火を放った。それを合図に紺屋ヶ淵より攻め寄せる。あれほど激しい攻撃にも耐えた城内兵も火勢に逃げ惑い、散り散りとなる。ただ、漆黒の闇に城の燃える紅蓮の炎だけが、天にとどけと龍神となって昇っていった。

成岩城のその後は、横根城(大府市)より水野の重臣梶川五左ヱ門文勝が移る。朝鮮半島の戦いで梶川が戦死、その後主もなく廃城となる。

榎本了圓の消息については、落城にさいして最期を遂げた話の伝えもないことから、何処かへ逃れたのであろう。

天文十二年の合戦の数年か後のこと、戦死者の供養のためと称して、成岩村の数ヶ所を若者が鉦を叩き、念仏を唱えながら巡る四遍念仏という行事がはじまった。中でも水野砦のあった観音堂前で、成岩城の方角に向け、一際声高く念仏を唱えたものだという。四遍念仏の開創者は誰やも知れぬが、もしかしたら、自らの意地で多くの犠牲者を出した了圓が、自責の念からはじめたのかもしれない。

文 本美信聿 (郷土史研究家)



成岩城跡は、城ノ上、城の腰(城残し)の地名を留めたが、現在は僅かに小さな森と石碑を残すのみ。水野砦跡は現在の成岩神社一帯をいう。後に観音堂が建てられ、砦観音とよばれた。

榎本了圓が矢竹を植えたという粕江の長藪に高塚があり、了圓に縁ある者の墓として鳥居が建てられ、村人は礼拝したという。現在は庚申堂と供養塔が建つ。