村木砦

信長、家康の溌刺たる青春が。

朔日、月の隠れた闇夜に乗じて重原港を発った船団は、秘かに村木の岬状に突出した台地に続々と上陸した。石川新左衛門率いる岡崎衆である。建築資材を陸揚げにかかった頃には東の空に陽が 射込んでいた。天文二十二年(1553)六月のことであった。

知多半島の緒川城に居た水野信元は、尾張と三河の国境い衣ヶ浦を挟んだ対岸の刈谷城も支配し、豊富な財力を得て勢力を拡大しつつあった。その緒川城と刈谷城の間に楔を打ちこむように村木砦は築かれたのだ。

信元の家臣、清水八右衛門家重は緊急を告げに緒川城に駆けつけた。

「捨ておけ。たかが三河者のやること、砦ができあがったところで、そっくり頂戴してくれるわ」

信元は慌てた様子もみせず高笑いした。

村木砦の普請は思いのほか早く進んだ。一町四方、東西百間、南北百二十間と広大な馬蹄型を成す。東に追手門、空堀に橋を架ける。西は搦手門で堀に土堤を築き乱材を菱形に結わえた柵を巡らした。南は瓶掘りした大堀が人を寄せつけない。北は入江が湾入、干潟の泥江となる。要塞堅固な高櫓が聳えたつ城郭が築かれた。守将の松平甚太郎率いる岡崎衆を中心に、駿河衆も含む大軍が城内に入った。駿河の大守今川義元が、京に上洛し天下に号令せんとの強い意志による。

信元がしまったと気づき、村木砦に押し寄せた時にはすでに遅く、散々に撃退されて被害を多くするばかり。

増援依頼を信元に命ぜられ清洲城に遣わされた清水家重は初めて織田信長と面談した。状況を説明すると一瞬細面の顔に血の気が失せたが、すぐに紅潮した表情で「わかった!直ぐ兵を纏め駆けつけるゆえ、信元に合戦の備えせよと伝えい」と甲高い声で簡潔に言うと、足早に立ち去っていった。平伏している家重の耳に板間を蹴る信長の足音だけが快く響いていた。

この時の信長は、尾張を従えるどころか、一族内の紛争にも悩まされ、信元を救ける余裕などなかった。だが、尾張の国の喉元に刃を突き付けられたに等しい今川軍の村木砦進出は、尾張最大の危機と察したのである。

ここで信長のとった策は、舅である美濃の斉藤道三に清洲城の留守を頼むといった大胆なものであった。たとえ舅といえども敵に城の守りを任せるなど常人では及びもつかないことである。

天文二十三年一月二十一日、熱田神宮に全軍集結を命じた。戦勝祈願をすると翌日、知多半島西岸に上陸し、二十三日に緒川城に入り水野信元と村本砦攻略の秘策を練る。

まだ肌寒い早暁、砦の南西にある天王社を織田軍の本陣とし、西方の搦手門を叔父の織田信光が、東の追手門を水野軍が、本軍は南の大堀より攻め寄せる。

この時、二十一歳の颯爽たる青年武将であった。本陣より信長自ら喚声をあげて駆けおりると、従う若武者は我先にと砦へ押し寄せた。堀に木橋を架けよじ登る。その度に城内より突き落とされ、堀は死傷者で山となる。守る今川軍も必死であった。

戦いは激烈を極めたが、苦戦する寄手をみて信長は、新兵器の鉄砲を砦に向け据え、代わるがわるに撃つ。あまりの轟音に恐怖した守兵は耳をふさぎたじろいだ。その隙に一斉に矢を射かけ砦へと殺到する。追手門の水野軍も搦手門の信光軍も砦内へと迫っていった。さしもの今川軍ももはやこれまでと笠や槍を振り降伏を告げる。

早朝八時に始まった戦いも午後五時まで間断となく続く激しいものであった。

翌々年、元服した松平元康(徳川家康)は岡崎に復帰、今川の命で再三にわたって村本砦奪回を 試みる。村本砦より北西にある石ヶ瀬川を挟んで水野軍と熾烈な戦闘を繰り返し、元康が只者でないことを近隣諸国に知らしめる。村木攻め後、信長の尾張統一に向け拍車が駆った。村木砦には信長や家康の溌刺たる青春があった。二人が大きく飛躍することになった桶狭間合戦は村木攻めより六年後のことである。

清水家重はその後、村木村の支配を任ぜられた。毎朝欠かさず砦跡を訪れ佇むのが日課である。しばし眼を閉じる。信長様は今や天下に号令をかけるべく上洛、信元様も家康様もそれに従い京へ上ったときく。馬に跨がった颯爽たる信長の若武者ぶりが彷彿として瞼に浮かぶ。あの戦いのあと、海に漂う汗と泥と血にまみれた戦死者や馬の死骸を集め葬った残酷な光景と重なってみえた。

家重が戦死者鎮魂のために砦跡に八釼社を建立したのは村木攻めの十七年後のことであった。

文 本美信聿 (郷土史研究家)



村木岩跡はJR武豊線尾張森岡駅北の八靭神社北西一帯で、この辺りを取手という。境内には東浦一という大松が聳えていたが、枯死し倒れた根元から古銭が入った古壺が出士。明治十八年の武豊線開通で線路が城跡中央を横切る。城跡の台地は削られ低地埋立の士砂に利用された。この際に建物の柱石、矢鍍刀剣などが発見された。

織田信長軍本陣の天王社は現在の村木神社である。信長が大勝利で祝宴を催した地は飯喰場(いくいば)の地名に残る。近くに戦死者を葬った首塚があり印に松樹を植えたと伝う。

石ヶ瀬川古戦場跡は大府高校南にあり、史蹟をあらわす案内板が建つ。