河和城

孫八郎さま、やっと帰って参りました。

十二年ぶりの帰郷である。嬉しさに浮いた行列はつづく。

河和(美浜町)が近づくにつれ、駕篭に乗った妙源尼の心はトキメキ昂る。駕篭の扉を開けると眩い日差しと懐かしい磯の香りがとびこむ。この匂いだ。河和に帰ってきたのだ。 胸が締めつけられ涙がこみあげてきた。闇の中を幼な児を抱えて城を脱出してから今日までの苦難が一瞬にして消えていく。「孫八郎さま、やっと帰って参りました」と呟き、零れ落ちる涙を拭った。

天正十七年(1589)、戸田孫八郎守光が小田原攻めで討死の凶報は河和城内を一瞬にして混乱に陥れた。

尾張海東郡戸田村(現在名古屋市中川区)の戸田宗光は明応年間(1492〜1500)三河と南知多に進出する。子の憲光は勢力を拡大し三河湾口を押さえる。本拠の渥美田原より晩年は河和に居を移し河和殿と呼ばれた。万五郎親元の代に河和の乾(北西)の小高い山上に本格的な城を構える。城主は孫右衛門繁光、孫八郎守光と継がれる。その間に緒川城(東浦町)の水野勢が半島を南下し押し寄せた。長年にわたる合戦がつづいたが、水野信元が岡崎で謀殺されたのを機会に水野、戸田両家は和睦となり、信元の娘妙(妙源尼)が孫八郎の許に嫁ぐこととなった。

河和の里に平和が戻ってきた。孫八郎は、近在の神社仏閣を再建修復し、善政に尽くしたため領民より慕われた。若き河和城主夫妻に三人赤児がつづいて誕生し、領内は祝いに湧いた。まさに孫八郎一家は平和の象徴で、領民にとってオラガ殿様として自慢の種であった。そこへ小田原攻めの命。孫八郎は勇んで河和城を出陣していった。

まさかの悲報。血の気も失せ、倒れんばかりの妙は、幼い万千代と二人の娘を抱きしめ、今自分がしっかりしなければと言いきかせ踏ん張つた。留守を守る家臣は幼き万千代を主と仰ぎ、戸田家再興に力を尽くすのが武士の忠義であったが、我が身の行く末ばかり案じて評定も まとまらない。早くも兵糧蔵で略奪がはじまり城内は殺気だっていた。

妙は信頼にたる僅かな家臣と侍女を従え、幼児三人をそれぞれに背負うと闇にまみれ城を脱出した。水野一族の野間大坊の長圓を頼って夢中で山を越える。大坊に無事辿り着いた時には恐怖で身体の震えがいつまでも止まらなかった。

後の噂話に、若君を背負った姥が村はずれの谷で若君をおろすと首のない死体であった。姥は嘆き悲しみ自らその場で自害し果てたという。あどけなく大坊の堂内を物珍しげに駆けまわる万千代と、懐ですやすや眠る二人の娘をみて、それが真実にならずによかったと妙は安堵するばかり。

戸田家再興に執念を燃やす妙は、叔母のお大の方(徳川家康の母)を頼って直訴する。八年後に万千代は元服し、家康より康の一字を賜り光康と名乗る。姓も戸田より水野に改め、武蔵国足立郡大門郷を給った。妙も夫孫八郎の冥福を祈るべく剃髪し妙源尼となる。

妙源尼の河和への望郷の念つよく、権現様(家康)に旧領復活を訴えた。慶長六年(1601)尾張藩主義直に什え河和郷千四百六ト石を給り、十二年ぶりの帰郷が叶うこととなった。

十二社権現の森が西陽をうけ影となる。一行が影を抜けると、突然に明るい日差しの緑に映えた小高い森が浮かびあがった。

「母上!」

まだ幼な顔を残した馬上の光康が興奮気に叫んだ。二人の娘も駕篭を降り、「はやく、母上さま」と催促するように妙源尼の手を引く。

「あの山の頂きにお城があったのですね」

光康の言葉と重なるようにして耳元に夫の言葉が囁くように響く。「こんなに怖がるとは思わなかった。子供をあやすより合戦するほうがどんなに易いか知れんわ」

城下の堀で万千代と遊んでいた孫八郎は「ここは底なし淵で龍神様が棲んでおるでのう。お前が悪さばかりすると龍神様に食われてしまうぞ」と脅したところ万千代は恐ろしさに泣きやまず、ほとほと手を焼いて困り果てた夫の顔が懐かしく愛おしい。その夫は今はいない。また涙が溢れた。

江川堤で歓声があがった。領内の人々挙って出迎えているのである。

「あれ嬉しや。わしらが殿様が帰られたわ」

「馬に乗った若武者が万千代さまかえ。すっかり立派になられたのお。まるで孫八郎さまをみるようで涙がでるわ」

領内は喜びに湧き、喜びに泣いた。幾日も祝いの祭りがつづいたが、妙源尼は大門の菩提寺全忠寺に参り、孫八郎の墓に花を供えた。

「これで孫八郎さまの怨霊も鎮まろう。お城が廃棄されてから、小雨の降る夜になると、必ずここより幾百もの夥しい提灯を灯したような火が城山へとつづいた。孫八郎さまの怨念と みな怖れておったもんだ」長老の一人が呟くように言った。

墓前に合掌し、万千代が立派に成長し河和領を復したことを報告した妙は、今まで張りつめていたものが失せ、全て萎えてしまいそうであった。

慶長十六年(1611)徳川家康は河和を訪れ、妙源尼、光康の母子は出迎えた。光康は城下に屋敷を築き地頭様として八十歳近い長寿を全うした。子孫代々地頭様として明治までつづく。孫八郎の長女は富貴城(武豊町)主となった水野守信の妻となる。守信はこのため戸田氏を名乗り関ケ原の合戦で功名をあげる。次女は山田長右衛門に嫁ぐ。みなそれぞれに幸せに暮ら したという。

文 本美信聿(郷土史研究家)



河和城跡は名鉄河和駅の南西の山がそれである。井戸跡と堀の一部を残したが、いまは定かでない。

戸田孫八郎守光の墓と伝う『旧跡さま』はかつての大門にあり、美浜稲荷として祀られている。美浜町役場より野間に至る道筋にある。ここより南に城ケ淵を挾んで河和城跡の森が望める。

『旧跡さま』にあった戸田家の菩提寺全忠寺は河和殿と呼ばれた戸田憲光の法名信渓全忠に囚む。度々の水害で村の南はずれの高台に移る。戸田家の位牌や、地頭様水野家歴代の墓がある。今は、ユ−スホステルや研修宿舎として利用されている。