亀崎城

衣浦の海を監視する要害の城。

稲生七郎左衛門重勝が亀崎の地に入ったのは二十歳の時であった。先祖は相模の豪族和田氏で ある。重村の時、鎌倉幕府の連署北条時村暗殺事件に連座して鎌倉を追われる。諸国流浪十年余、伊勢国の稲生村に安住の地を得た。重勝は十数代の孫にあたる。庶流であるため家督は継げず、 若き頃より他国での独立を志していた。氏神の伊奈富神社に参籠し願掛けたところ不思議なことに社殿が鳴動するではないか。これぞ神の顕示に違いないと意を強くし、白子浜より舟で潮の流るに身を任せた。小舟は伊勢の海原を漂った末、尾張国知多の亀崎の浜に流れ着いたのであつた。

亀崎に居を構えた重勝は漁師の中から若者を選び水軍を組織した。神武天皇が大和へ入国の折に この地の天神岬に上陸、里人は桟をかけて出迎えた。伊勢神宮へは欠かさず魚介類を貢上するなど、亀崎の漁師は神の子としての誇りたかく、船の操りに長けた優秀な船乗りであった。

重勝は小川城の水野忠政の船奉行に召し抱えられ、度々の合戦で手柄をたてた。忠政より政の字を賜り政勝と名を改める。水野氏は亀崎水軍の活躍で三河湾の航海権を完全に支配しつつあった。

天文十年(一五四一)水野忠政の娘お大が岡崎の松平広忠に嫁ぐこととなった。松平と水野が手を結ぶことに脅威を感じた織田信秀はこの縁談を妨害せんと花嫁の強奪を謀った。この情報を得た忠政は政勝を招き一計を案じる。陸路を花嫁行列が往き、それとは別にお大は海路を矢作川を上って岡崎城下へ無事届けることとなった。この縁により、政勝の子息政国は広忠、元康(家康)に仕えることとなる。

その三年後、忠政が没すると水野家は信元の代となり織田と同盟を結ぶ。お大は離縁され刈谷城に送り返された。国境まで岡崎衆が輿を運ぶ。出迎えた水野方は、姫御が離縁された屈辱に血相を変え岡崎衆は一人残さず討ちとると意気込んでいた。一触即発の危機に刈谷衆の中から「静まれいー!」と一喝する声が響いた。稲生政勝である。つづいて岡崎方に置かれた輿の中から、「争いはなりますまいぞ。これも竹千代殿(後の家康)の御為」と厳しい声が凛と放たれた。

お大の一声で無事輿の引渡しは終え、輿の一方を担ぐ政勝に「七郎左、また命を救って下されたのう。このこと忘れはせぬぞ」

お大は優しく声をかけた。離縁され傷心にくれる十七の女御とは思えぬ沈着冷静な態度に、先年の嫁入りする幼い面影が重なり、立派に成長された姿を思うと熱い涙が零れてならなかった。

天文十二年五月、信元は勢力を知多の南へと拡大しつつ兵を集結した。それにともない政勝は北浦にあった館を、神前神社の裏山にある富士山に城を築き居を移した。東に遠く富士山を望む眺望の地は衣浦の海を監視するに最適な要害の城であった。別に有脇城に石川与市郎を、飯森城(乙川)に婿の稲生光春を置き、東の三河勢、南の成岩城榎本了円へ水野軍の最前線として備えた。

北浦湊は入江が深く湾入し波穏やかな格好な天然の湊であった。つねに数十艘嫂の軍船舳軸先を並べていた。いま亀崎水軍に護られるようにして白帆を膨らませた帆前船が湊に入ってきた。

城山の急坂を二人の若者が肩を並べ汗掻き登る。雑木の夏蝉が激しく鳴いた。

「これは珍しい御大がござらっしゃったのう」

「政勝様もお元気な様子。何よりでございます」

若者は出迎えた政勝に丁重に頭をさげた。名を中嶋清延という。父の明延は岡崎の出で三河武士であった。松平清康(家康の祖父)の命で上方に出て、物資調達、諸国大名の動静を報せた。清延も刈谷城にしばし滞在し政勝とも顔馴染みであった。今一人の若者は政勝を継ぐ末子の与七郎政清であった。二人は同年ということもあって気のあう仲である。同じ年に元康(家康)がいる。

刈谷城にあがる前に亀崎城に立ち寄って衣服を整えるとのことは表向きで、実は桶狭間合戦で東海の覇者今川義元を討った織田信長の真の実力のほどを知りたかったがためであった。

清延は先年、酒の酔いに任せて理屈で水野党の若衆を負かした。その遺恨で刈谷城下で闇討ちにあう。幸い傷も浅手で案じることもなかった。そんなこともあり無駄な意固地を張り合う武士が嫌になり、商人として武士大名を操ってみたいと思っていた。

「今日はよい土産をお持ちいたしました」

清延は配下の用意した異様な形をした鉄の棒を手に取った。これがあの鉄砲という恐ろしい武器かと、政勝と政清は眼を輝かせた。信長の鉄砲狂いは有名である。一挺でも欲しいに違いない。それを百挺も用意したという。鉄砲の餌で水野信元の仲介により信長と元康が手を結ぶ。これこそ新しい時代を創る清延の描いた夢であった。

弓の達人として近郷に知られた政清と弓と銃の比べ打ちとなった。政清は強弓を引き絞り矢を放つと的板を見事に砕いた。城内よりオーッという歓声があがった。続いて清延は火縄に火を点した。ゆっくり構え的へ銃先を向けた。引き金を弾くまでの長い沈黙は緊張を極限に高めた。轟音とともに的の水瓶は四散し砕け散る。鉄砲の威力より、その音に人々は度胆を抜かれた。声すら出ない。ドドーンと腹底に響く轟音は亀崎の里中はおろか、遠く三河の山峰まで響くような凄まじさであった。新しき時代を告げる音でもあった。

硝煙の煙がたちのぼる銃を構えた清延の姿が、政清には同じ二十歳前の若者とは見えず、器が俺とは一回りも違うわいと兜を脱いだ。

稲生政清はその後、家康の家臣として活躍する。伊豆三崎で船奉行、晩年は駿河に赴き家康のよき話相手として仕えた。中嶋清延は茶屋四郎次郎と名を改め豪商として名を残す。本能寺の変では家康の危機を救う。その後も家康のブレーンとして活躍した。

亀崎城は政清の子の猪右衛門重政が継ぐが、城を一族の弥太郎重房に譲り、師崎の千賀氏に招かれ母とともに師崎に移る。重政率いる亀崎船は大坂冬の陣で大活躍する。奪取した船は二十一隻にあがり、中でも大坂丸を捕獲する大手柄をたて稲生の名は天下に轟く。子孫は代々尾張藩に仕え名古屋城三ノ丸に屋敷を構えた。

文 本美信聿 (郷土史研究家)



亀崎城跡は神前神社の裏山にあり、神苑として公園になっている。片隅に「亀崎城跡」の碑が建つ。城跡は月見の名勝地「亀崎の月」として有名である。

稲生家の菩提寺は神前神社北隣りの海潮院である。元は北浦にあり海長庵と称したものを、稲生重政が城下の現在地に移す。寺名は政勝の法名海潮院政勝居士に因む。本堂裏に稲生一族歴代の墓が並ぶ。別に重政の墓は師崎の延命寺にもある。