富貴城

命果ても、きっとあの世で・・・。

潮風避けの松原がどこまでも続く砂浜を、髪の白さが目立つ老夫婦が歩いている。富貴城主戸田法雲夫妻であった。

「この地に浦ノ島という所がある。聞くと、御伽草子に出てくる浦島太郎の誕生地だという。あの沖に龍官城があるのだそうだ」

遥か遠く、紺碧の三河の海原を指さした。

「ほんに、御伽草子にみる夢のような穏やかな里ですね」

「この土地の布木という名を富貴に改めようと思っておる。誰もが、白山に物を売ったり買ったりできる、そんな市場をつくりたいものだ」

「富みと貴いですか。豊かで優しそうな名で、とても良いではないですか」

これまで夫は戦いに明け暮れ、夫婦で会話を交わす余裕すらなかった。戦いのない時がこんなに人の心を豊かにするものかと、改めて白分の夫の別の姿を見直した。

磯の波打際を漂う海草が、海と砂を緑に染めていく。海草拾いや貝を採る村人が膝まで海につかる姿はいかにも平和であった。

「この土地に来て、ほんとうによかった」

こんな心休まる時がいつまでも続きますようにと、奥方は夫の手をきつく握りしめた。

戸田法雲は、一族の若き河和城主を補佐するために知多半島に入った。北の緒川城(東浦町)の水野信元の備えとして富貴(武豊町)に城を築く。海岸より入江を導き、城近くに湊を没け、舟での交易をはかるために市場を開く。富貴の名の如く、村はますます繁栄していった。法雲自らは、城の北方の大高にある光明寺を館として居住した。ために村人からは大高殿として慕われた。

天文十二年(一五四三)水野信元は成岩城(半田市)を攻略した。一族の水野監物が守る常滑城(常滑市)と結ぶ、半島を横断する主要道路の重要拠点を手中においたことになる。

水野の野望はさらに膨れあがる。成岩城の南へと軍勢を押し進め、長尾城(武豊町)を包囲した。城主岩田安広は圧倒的な水野の兵力の前に、抵抗する戦意も失せ、白ら頭を丸めて降伏する。安広は仏門に入り呆貞と称した。鎌倉時代よりこの地を領した岩田氏は滅んだのである。

水野軍が長尾城を包囲したとの危急を告げる報に、戸田法雲は直ちに河和城と戸田氏の本拠、三河田原へ援軍依頼の伝令を発した。大高館を砦として備えるとともに、城の周囲に幾重もの壕を堀り城を固めた。

「殿、岩田殿は戦わずして水野の軍門に下りました」

偵察の兵が息を乱して城内に駆け込んできた。

「何、不甲斐なや」

法雲は歯軋りすると、歴戦の強者の血が滾った。

遥か北の方角より水野軍の旗指物が波うって押し寄せる。大高砦はその波に押し包まれていく。傷ついた兵が続々と城内に逃げ帰って きた。法雲は城兵をまとめると、自ら馬に跨がり堀川まで討って出る。川を挟んでの合戦は壮烈を極めた。城内に戻った時には、すべての兵が血に染まり傷ついていた。

「奥や、河和へ無事落ちのびるのだ。私にかわり長生きしてくれ。たとえこの城で命て果てても、きっとあの世でも再び二人は結ばれるに違いない」

涙ながらに奥方は供の者や女子供、老いた人々とともに慌ただしく城を落ちる。アイノ山(富貴駅の西)まで辿り着くと振り返りみる。城の方角で攻め手の喚声とともに城に火があがる。

「御内室様、急いで下さいませ。敵兵がやってまいります」

泣き叫ぶ人々を北へ落とすと、城に向かって合掌し、「私もお供いたします」と懐剣でもって命を絶った。

激しい合戦から一夜明けた朝露の中に、焼けおちた城からは燻んだ煙がたちのぼる。焦土と化した光景が戦いの凌まじさを物語っていた。枝葉を焦がしたクロガネモチの大木が悲しげに立つ。累々と横たわる死屍体や馬を、村人は城の西に黙々と運び山とした。ここに塚を築き葬る。後に夜になると、兵士のすすり泣きとも、馬のいななきともつかぬ悲しげな声が塚の周囲から流れたという。この塚は「いななきの塚」と呼ばれた。

奥方が自害したアイノ山に、奥方とも戦死者を葬ったともいう大塚があった。この地を奥方の名に因み小桜と呼ぶ。

これより後、水野勢は隣の布土(美浜町)まで進軍し、信元の弟忠分がここに城を構え、河和城(美浜町)の戸田氏と相対した。

時代を経てのことである。小雨降る夜、村の若者二人が小桜を通りかかると、塚の辺りから青白い火の玉が飛び立ったのに魂げて腰をぬかした。勇気を出して火の玉の行方を追うと、城跡に建つ白山社の森に消えていった。すると森からもう一つの火の玉が出現し、二つの火の玉はいかにも仲睦ましげに絡みあっていた。この話を聞いた村の人々は、きっと、あの世で殿様と奥方様が逢瀬を楽しんでいるに違いないと噂しあった。

文 本美信聿(郷土史研究家)



富貴城本丸跡には現在白山神社が祀られている。隣地の円観寺を含む一帯が城跡で、境内裏に壕跡を残す。クロガネモチの大樹は今だに聳え立っている。城跡を中心に外堀、東門、外面などの地名が現在もある。

奥方が自害したと伝うアイノ山は小桜の地名と稲荷社が祀られている。火の玉が城跡へ通ったとの話は藤原某と小桜姫の悲恋物語であるとの別の伝えもある。

戸田法雲については定かでない。法雲は法名であろう。ある書に孫右衛門だとの名もみえる。孫右衛門は河和城主で、戸田孫八郎の父繁光になる。一説には河和城に無事逃れたともある。

水野軍南下より約六十年後(推測)富貴一千石を領した信元の甥水野守信が戸田姓を名乗ったことがある。富貴城攻防戦の戸田法雲と混同するものも多い。