知多半島の山車彫刻  
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山車彫刻

第3回 「山車彫刻」

「山車彫刻」
■建築における装飾彫刻
■山車彫刻の流れ
■彫物師の系譜
 ・立川一門
 └ その他の立川流
 ・彫長一門
 ・瀬川一門
 ・その他の彫刻師

 三十一台もの山車が勢揃いする「半田山車まつり」を中心に、知多の山車は、今や全国的に知られるところとなった。中でも、山車のいたるところに嵌めこまれた豪華な山車彫刻は見事で、全国各地より祭り見物に訪れた人々は、必ず称賛の声をあげる。日本の代表的な山車の一つとして定着したといってよい。
 昔は他村の山車と比べて自慢の種は彫物であった。和四郎らの立派な山車彫刻を所有する組が自慢するのは当然だが、例え極く目立たない彫物であっても他組になければそれが自慢の対象となる。自慢は彫物に紫壇、黒壇を使っていると、その材質までに及ぶ。それが祭好きの心意気でもあった。
 今ほど伝統が重んじられず、文化財保護が問われなかった頃は、現在でこそ価値ある古い山車は好まれなかった。木肌も香るような新しい彫刻で飾られた山車の方がより価値あると思われた時代もあった。半田市乙川の山車のように、これ以上彫物を嵌め込む場所のないほどに彫刻で飾られた山車もある。
 からくり人形が祭の華なら、山車彫刻は祭の魂といってよい。こういった素晴らしい山車を数多く建造できた背景には、知多半島の豊かな財力と、天才的彫物師の新美常次郎こと彫常と、彼を支えた岩田冬根や、今に至るまで彫物師として活躍つづける二代彫常の新美茂登司が地元半田に存在したことが大きい。また堂宮大工岸幕・江原一族が阿久比の横松に居たことも忘れてはならない。今日の山車まつり隆盛の功績は彼らの尽力による。 △上へ

■建築における装飾彫刻 

 奈良時代から平安時代にかけて寺院、堂宇における建築彫刻は乏しい。わずかに渦巻紋の模様の一部にみられるにすぎない。鎌倉時代以降になり、貫や梁の先端にあたる部分が、象、貘、獅子、牡丹などの木鼻彫刻で飾られるようになる。
 絢爛と華咲く桃山文化は、従来の建築様式にとらわれることなく、建築彫刻に彩色を縦横に使用した。自由奔放な方法で力量感をます建築が増えるようになる。桃山様式とか桃山建築という。
 この傾向は江戸時代に入るとさらに過激となる。建築彫刻が建築本体までを覆いつくすかのようになる。その代表的な建造物が日光東照宮であろう。
 東照宮は徳川家康の霊廟で、元和三年(一六一七)に完成している。いま私たちが知る東照宮は、三代将軍家光によって寛永十一年から二十年(一六三四〜四三)にかけて大改造されたものだ。総棟梁は近江大工の名門、甲良豊後宗広である。彼は建築彫刻の名人であった。
 東照宮は、極限近くまで詰められた建築構成の一究極を示すものとして位置ずけられている。華麗な装飾を施された建築に対する評価は二つの極端に分かれる。一つは、豪華で多様な変化を持った建築の実現に感嘆し、称
賛の言葉を惜しまない。一方では、本来もつ建築の合理性を追求するという視点からみると、低く評価する立場をとる。有名なブルーノ・タゥトは、同時期に一部は同じ人物が携わって建造された桂離宮を建築美の極致をいく理想的なものとして絶賛したが、東照宮は「威圧的」で「珍奇な骨董品」と酷評した。だが一般民衆は「日光を見ないうちは結構というな」と日光の建築美を讃え親しんできた。この庶民感覚が東照宮に代表される装飾彫刻の流れの一端とし山車彫刻を生みだすのであった。
 朱、紺青、緑の極彩色で飾られた彫刻の数々。この中に、インド、中国渡来の霊獣、奇鳥を含め何千何百の花鳥草獣が隠れている。寛永の大造替には、伝統を受継ぐ名門の仏師、名匠、名工から、無名の大工人夫まで、全国各地から巣まった。彼らが技を競ったのであるが、完成した建築に、驚嘆のあまり目を見張ったことであろう。
 「東照宮御造営帳」に大工手間の内訳として、石の聞か平大工168,991人、彫物大工115,000人、木引23,100人。拝殿は平大工140,404人、彫物大工107,980人、木引20,280人とある。従来の建築と比較して、いかに彫物師を重視した造営であったかが窺える。造営後、彼ら彫物大工が故郷に帰り、社寺建築に腕をふるったに違いない。日光東照宮大造替の影響は計りしれないものがある。
 社寺建築の江戸中期以降になると、経済的な理由にもよろうが、華麗さか陰をひそめ、彫物師は細部の彫刻などに腕の見せどころを求めた。
 極彩色の装飾彫刻から素木(しらき)彫刻が多くなる。木肌のもつ特徴を最大限に生かしたのが立川流彫刻で、欅らの木目の味を、ダイナミックな構成の中で彫刻にした。これが山車彫刻に繋がることとなる。だが、一方では、明治になると彫物の独創性が薄れ「彫刻雛形」類の種本による型に嵌まった彫刻が多くなる。
 建築彫刻がいかに優れていようと、彫刻や絵画などと違い、機能的な「用」と、装飾的な「美」の両方を兼ね備えた実用芸術、または応用美術としてしか見られなかった。彫刻そのものが芸術作品として価値づけられることはなかった。左甚五郎などの伝説的名人の、どんなに見事な彫物も所詮は精巧な工芸品の域を出ない。彫物師もあくまで職人の位置に留まるしかない。
 だが、彫物師の中には、従来の職人的仕事にあきたらず、よき指導者を得て、木彫彫刻や塑造彫刻の芸術の世界に新しき道を求め脱皮し、その道で大成した者も数多い。有名な高村光雲や竹内久一らがその代表的な人物である。 △上へ

■山車彫刻の流れ 

 山車彫刻は日光東照宮に代表される装飾彫刻の流れの一端にある。動く山車に彫刻を嵌め込むという独創性は名匠立川和四郎の意匠もあろうが、お祭り好きな国民性から庶民の欲求から生まれたといっても過言ではない。その主題も、誰が見てもわかる物が求められた。
 山車に彫刻が施されるようになるのは、立川和四郎以前にもある。黒漆を下地に、金箔を張り、飾り金具や彫物を嵌める。その上から綾絹(うんげん)彩色といって三段に色を塗り重ねた。彫物の数も現在の山車と比較して極めて僅かである。
 そういった名残を留める古い山車が、現在でも祭礼に曳き回されている地区もある。南知多町内海の東端と吹越。美浜町布土。武豊町の大足と東大高の山車に、昔さながらの姿を見る。これらの山車の彫刻は、あくまで装飾の一部に過ぎず、早瀬長兵衛や瀬川治助、また横松の岸幕善兵衛ら堂宮大工自身が彫ったものである。
 こういった彫刻の下絵は絵師が描いていたもののようだ。名古屋の東照宮祭石橋車の高欄回りの彫刻や金具の意匠は、安政五年(一八五八)渡辺清の筆による。渡辺清は号を周渓といい土佐派の画家である。彼は彫物、金具の図絵下絵から、からくり人形の装束や囃子手の服装まで考案したという。
 名古屋若宮祭寿老人車の高欄回りの百草透彫の下絵は森高雅の筆による。彫物師と絵師の関係を垣間窺いしれる。因みに、同じ若宮祭黒船車の高欄回りの浪と岫のの倶惧加羅竜の彫刻は瀬川治助による。
 有名な逸話であるが、亀崎村の成田新左衛門が遠州秋葉社参詣の際、山門の力神像を見て感嘆、早速作者である諏訪の二代立川和四郎に彫刻を依頼した。これが現在の知多型山車建造の最初のきっかけと言われている。それ以前にも彫刻を施された知多型山車が存在したのも事実である。だが、彫刻を最も効果的に使用したのはこの時からであろう。文政十年から十二年(一八二七〜二九)にかけて二代和四郎富昌と常蔵昌敬は亀崎で力神車、神楽車、花王車を次々と制作している。
 前山と上山の二段の唐破風屋根、蟇股、脇障子、壇箱、蹴込とつづく彫刻は、正面から見た豪華さを強調したもので、より彫物が際立ってみえる。前棚を前に迫り出したことで、壇箱の奥行きが深くなり、彫刻が従来の平面的なものから、立体感のある素晴らしいものとなった。こういった彫物主体の山車の出現は、地元の堂宮大工、祭り好きな人々に多大な影響を与えた。
 日本文化に二面性があることはよく言われることだ。静寂な中で自然に溶けこんだワビとサビの世界。一方で
は絢爛豪華を好む極端が日本人にはある。いい例が前に述べた桂離宮と日光東照宮である。前者は精神の極限を表現したものとして芸術の名が与えられる。後者には観光名所として見物客がひっきりなしに訪れる。
 山車彫刻も同じ運命である。いかに見事な彫刻であっても、それが芸術的価値として見出されることはない。建造物や山車が例え文化財として指定を受けても、彫刻そのものが文化財となることはない。その物の中の一部にしかすぎないのだ。まずそのことを認識しなければならないだろう。どんなにか優れた国宝の仏像を見ても退屈に思う人々が、山車彫刻を見て、彫物師の見事な腕に感嘆の声をあげる。それが庶民感覚である。 △上へ

 
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